とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

1Q84 Book3

 ようやく読み終わった。1Q84。青豆と天吾の愛の物語。「ノルウェイの森」が純愛小説と持ち上げられたことがあったが、あまりそう思えなかった。しかし「1Q84」は純愛小説と言ってもいいだろう。物語と現実が交錯し、時と場所が錯綜する。10歳のときに手を握り合ったふたりは、その後、会うこともなく場所を違えて性交し妊娠する。それを媒介したのはマザとドウタの世界。「空気さなぎ」の物語。リトルピープルは何を企てているのか。「さきがけ」が人間世界に果たしている役割とは何か。
 何もわからない。わかるのはそれが1Q84年の世界、猫の町の出来事だということ。
 それにしても、Book2でも感じたが、Book3ではいよいよ冗長感が強い。牛河と青豆と天吾。それぞれがそれぞれの場所でただお互いに見張り、見守り続ける。何も起こらない。ただ退屈な時間を考え、本を読み、身体を動かす。そのことが延々と綴られる。天吾と若い看護婦とのハシッシを吸う一夜は何のため。NHKの集金人は変わることができない人間の妄執を表しているのか。
 Book2を読んでいる時に思った、村上春樹は最初からBook3まで構想していたのか。それを確認したくて、2年前に読んだ「考える人2010年夏号」を取り出して読んでみた。なんとそこには、Book2で終わるつもりだったと書かれている。「1Q84」というタイトルが最初に決まり、青豆と天吾の名前が生まれ、青豆が首都高速の非常階段を降りて物語が動き出した。そしてBoo2までで書きたいことは書いてしまった。だが、しばらくするとBook3が書きたくなった。3人とも動かないことには村上春樹自身もかなり苦しんだらしい。しかし同時に楽しんだ。そして青豆と天吾の物語が一応のエンディングを迎えた。
 Book3がないとやはり中途半端な感じだっただろう。二人の愛は成就させてあげたい。青豆の妊娠で物語が動き出した。よかった。非常階段を上がって戻った世界が1984年か、はたまた19八4年か、市984年か、それはどうでもいい。二人は新しい世界で新しい二人の物語を始めるのだろう。僕らも2012年に生きているのかどうかわからない。月の数と色を確認して見よう。いや、ESSOの看板か?

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈前編〉 (新潮文庫)

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈前編〉 (新潮文庫)

●「再生についてのいちばんの問題はね」と小柄な看護婦は秘密を打ち明けるように言った。「人は自分のためには再生できないということなの。他の誰かのためにしかできない」/でもね天吾くん、結局のところ、いったん死なないことには再生もない」「死のないところには再生はない」と天吾は確認した。「しかし人は生きながら死に迫ることがある」「生きながら死に迫る」、天吾はその意味を理解できないまま繰り返した。(P234)
●一般的に真理と考えられているものが多くの場合、相対的なものごとに過ぎないと認識していった。また彼は学んだ。主観と客観は、多くの人々が考えているほど明瞭に区別できるものではないし、もしその境界線がもともと不明瞭であるなら、意図的にそれを移動するのはさほど困難な作業ではないのだと。(P321)

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈後編〉 (新潮文庫)

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈後編〉 (新潮文庫)

●あんたがたの人生は、あんたがた本人にとってはきっと大事な意味を持つものなのだろう。またかけがえのないものなのだろう。それはわかる。しかしこちらにとってはあってもなくてもどちらでもいいものだ。俺にとっちゃあんたがたはみんな、書き割りの風景の前を通り過ぎていくぺらぺらの切り抜き人間に過ぎない。俺があんたがたに求めるのはただひとつ「どうか俺の仕事の邪魔をしないでくれ。そのまま切り抜きの人間でいてくれ」ということだ。(P111)
●私は孤独ではない、と青豆は想う。私たちはひとつに結びつけられているのだ。おそらくは同じ物語に共時的に含まれることによって。/そしてもしそれが天吾の物語であると同時に、私の物語でもあるのなら、私にもその筋を書くことはできるはずだ。青豆はそう考える。何かをそこに書き添えることだって、あるいはまたそこにある何かを書き換えることだって、きっとできるはずだ。そして何よりも、結末を自分の意思で決定することができるはずだ。(P232)