とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

 2011年3月11日。あの東日本大震災、そしてフクシマ原発事故の日からの、筆者がツイッターで発した「ことば」、「つぶやき」がただ並べられている。そしてそれと並行して筆者が書いたエッセイや書評や評論、小説の冒頭など。震災と原発事故は、明治維新や戦争前後と並ぶ時代の転換点だと言われる。その時を僕らはいかに過ごしたのか。何を考えたのか。それを記録として残そうという筆者の試みはよくわかる。
 一方で、時はあの日のことを次第に忘却の彼方へ押しやろうとしている。忘れかけている。あの、連日「エーシーッ」のCMばかりが流された日々。原発がいつ再爆発するかと怯えた日々。今でも東京は暗いのだろうか。僕らは1年前のことももう忘れかけている。
 また、怯えるばかりではなく、日々の生活も営んでいた。高橋さんちのしんちゃんとれんちゃんは、元気に無邪気に日々成長している。怯えから怒り、さらに虚無感。それでも次第に「ことば」は思想をつかみ取り、表現を始めていく。それは、震災前の言葉のための「ことば」ではなく、地に足を付けた生きた「ことば」。
 表現者としての高橋源一郎をしばらく追いかけようと思う。

「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

●「正しい」という理由で、なにかをするべきではありません。「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません。(P33)
●おれたち全員が脱出できる「出口」を見つけなきゃならん。それは、どこにあるかって? それは、微かな光を放っているはずだ。あるいは、そこからは、微かに、外からの新鮮な空気が漏れだしているはずだ。/そんな微かな光や空気を見つけるために、おれたちは、じっと静かに、全身を耳に、目にしなきゃならんのだ。(P54)
●相手が自分と違う意見を主張すると、なぜ胸がざわつき、躍起になって否定しようとするのだろう。それは、ほんとうは、ぼくたちは他人が怖いからだ。自分と違う意見の人間がいることに恐れを抱いているからだ。/「説得を受け入れて変わる」鶴見さんの世界は、逆だ。それは「自分と違った考えの人間がいて良かった」という思想だ。人間は孤独であり、それ故、自分以外の他者を必要としている。だから、異なった意見の人間の批判を、鶴見さんは喜んで受け入れる。世界に必要なものは多様性なのだ。(P133)
祝島は、みんなで手をつないで、ゆっくり「下りて」ゆく場所だ。「上がって」ゆく生き方だけではない、そんな生き方があったことを、ぼくたちは忘れていたのだ。それは、確実に待っている「死」に向って、威厳にみちた態度で歩むこと、といってもいい。(P163)