とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

春を恨んだりはしない

 池澤夏樹も震災後、宮城県から三陸にかけての海岸を取材して歩いた。地震のあった3月11日から最大余震を仙台で経験した4月7日までの日々を綴った「3 あの日、あの後の日々」。その翌日から海岸線を北上した経験を綴った「4 被災地の静寂」。ボランティア・グループの一員として被災者支援に行った際の思いを描いた「6 避難所の前で」。
 これらの体験をベースにしたエッセイをはさんで、死者を思う「1 まえがき、あるいは死者たち」。桜に哀しみを感じ、被災した人々の経験に触れた思いを綴った「2 春を恨んだりはしない」。風土としての日本を想う「5 国土としての日本列島」。
 さらに科学史を振り返り、原発技術の未熟と未来を考える「7 昔、原発というものがあった」。「8 政治に何ができるか」、「9 ヴォルテールの困惑」を加えて、池澤夏樹が震災と原発後の日本を多面的に見つめる。
 物理学徒の経験を通じ、作家の豊かな感性がその透徹とした悲しみと未来を描きだす。春が恨みの対象でなく自然と迎えられる日はいつ来るのだろう。3.11は永遠に忘れられない。

春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと

春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと

●社会は総論をまとめた上で今の問題と先の問題のみを論じようとする。少しでも元気の出る話題を優先する。/しかし背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。・・・たくさんの人たちがたくさんの遺体を見た。彼らは何も言わないが、その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景となって、将来のこの国の雰囲気を決めることにならないか。/死は祓えない。戦おうとするべきでない。(P9)
●大地さえ揺れ海さえ陸地の襲いかかる地では常なるものは何も無い。/我々は諦めるという言葉をよく使う。語源に戻って考えれば、「諦める」は「明らめる」、「明らかにする」である。事態が自分の力の範囲を超えることを明白なこととして認知し、受け入れ、その先の努力を放棄して運命に身を任せる。/我々は諦めることの達人になった。(P60)
●世の事業の大半はこんな風に安全性を強調はしない。新幹線も飛行機も今更「安全です」とは言わない。何かを隠そうとすればするほどそれが露わになる。・・・美辞麗句を連ねる求愛者には用心した方がいい。これは物理を学んだ者ではなく詩を書きながら言葉の扱いを学んだ者としてのぼくの感想だった。(P83)
●テクノロジーの面においてはその気になれば社会はがらりと変わる。原発から再生可能エネルギーへの転換も実はさほどむつかしいことではないのではないか。原子力におけるような原理的な困難はない。・・・それならば、進む方向を変えた方がいい。「昔、原発というものがあった」と笑って言える時代の方へ舵を向ける。・・・アレグロではなくモデラート・カンタービレの日々。/それはさほど遠いところにはないはずだと、この何十年か日本の社会の変化を見てきたぼくは思う。(P97)
●これを機に日本という国のある局面が変わるだろう。・・・人々の心の中では変化が起こっている。自分が求めているのはモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしもずっと安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。/その変化を、自分も混乱の中を走り回りながら、見て行こう。(P112)