とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

サッカー批評 59

 特集は「ザッケローニを超える日本代表へ」。表紙左上に「『世界の壁』は本当に存在するのか?」の文字が。今や「世界の壁」は死語ではないか、というのが編集部の基本的なスタンス。私もそう思う。日本も世界の一員である以上、「世界の壁」とは意味不明なのだ。
 同様に、「○○の悲劇」という言葉も日本だけのメディアが作り上げた言葉という山崎浩一氏の指摘は興味深い。「サンドニの悲劇」って、あれは本当に悲劇だったんだろうか?
 特集では、先のフランス、ブラジル2連戦を材料に種々の分析を試みているが、中でも「遠藤と長谷部のボランチコンビの限界」を指摘する清水英斗氏と松田宏栃木FC監督の記事が興味深い。田村修一のフランス人ジャーナリスト取材も、日本に対する的確な分析とリスペクトが心地良い。
 軽い話題としては、「市井の人々にサッカー日本代表について聞いてみました」の竹田聡一郎が面白い。もっとも何が書かれていたか、軽過ぎてもう僕の頭からは消えかけているが。連載を希望する。
 そう言えば、網本将也氏の「ゴール裏センチメンタル合掌団」もとい「合唱団」。昇格プレーオフでぬかよろこびの末、6位トリニータに葬り去られたジェフ。次回はどんな心中独白が聞かれるのか。今から楽しみ、いや失礼、同情します。

●私は、未だメディアに溢れる「世界の壁」「世界との差」という言葉を目にするたびに、・・・悔しい気持ちもこみ上げてくる。・・・そもそも日本は「世界」に一角、いや、むしろ世界に冠たる国ではないのか?・・・「世界の壁」が本当に存在するのかと問われれば、私はこう断言したい。「そんなものはない」(P010)
●フランス戦とブラジル戦を通して明らかになったこと、それはディフェンス面における遠藤保仁長谷部誠のダブルボランチの限界ではないかと思う。・・・南アW杯の岡田ジャパンは、・・・アンカーポジションに阿部勇樹を置くことで、バイタルエリアの守備の安定感を増していた。それは裏を返せば、遠藤と長谷部の2人ではこのバイタルエリアのスペースを守り切れないという判断でもある。(P014)
●確かにこれまでだって「貴重な経験」と言われたものは山ほどあったわけで、それがどこまで、どんな血となり肉となっているのかは、食べ物といっしょで目に見えないのは当然です。自分の人生経験をふり返ってみたって、いったい何が有益で何が無駄で何が有害で何がよくわからないか、まだよくわかりませんから。(P118)
●おそらくフランスには「パリの悲劇」なんて言葉は存在しないし、オーストラリア人も「メルボルンの悲劇」なんて知らない・・・念のため「ミュンヘンの悲劇」や「ヘイゼルの悲劇」も原語検索してみたが、”Disaster(災害・惨事)”とは呼んでいても”Tragedy”という言葉は一切ない。・・・/てことは、つまりあれらを「悲劇」と呼んでるのは日本人、いや日本のメディアだけだってことですか?/どうもそうらしい。(P120)