とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

密林の語り部

 ガルシア・マルケスが亡くなった。確か積んどく状態の書棚の上にマルケスの本があるはずと思って探してみたら、バルガス・リョサだった。せっかくだから、バルガス・リョガも読んでみよう。バルガス・リョサと言えば、数年前に「緑の家」を読んだことがある。今改めてその感想を読み返すと、当時もその豊饒な物語に驚いている。アマゾンの奥地で繰り広げられる混沌とした世界だ。その記憶が頭に浮かびつつ読み始めた。が、書き出しからかなり雰囲気が違う。フィレンツェの画廊でたまたま観た祖国の写真展から若い頃に出会った友人のことを思い出す。短い導入部分から若き日の思い出が語られていく。
 筆者本人の回想と経験。そして若き頃の友人、サウル・スラータスと思しき語り部の物語。これらが交互に繰り返される。もちろん惹き込まれるのは語り部が語るアマゾンの原住民マチゲンガ族の物語だ。彼らはタスリンチに率いられ、セリピガリの言葉に導かれ、放浪を繰り返す。世界はタスリンチとキエンチバコリの争いの結果作られた。人は死ぬことはない。行って、還ってくる。世界は太陽のいるインキテと、悪魔が棲む地下の世界と、そして人々が暮らす地上の世界に分かれている。自然は言葉から生まれ、人は自然の言葉を聞く。そして放浪する。
 実に豊饒な世界だ。と同時に、彼らの世界がキリスト教の伝道士や民俗学者らによって次第に壊されていくことを嘆く。友人サウルは彼らの世界に惹かれ、学問を捨て、ついに語り部となってマチゲンガ族の間を渡り歩く。筆者は民俗学者らの話から語り部の姿を追い求めるが、なかなか辿り着かない。そしてフィレンツェの写真展で語り部となったサウルの姿を見る。
 単なるマチゲンガ族の神話物語ではない。現代に生きる筆者や近代社会から未開の社会に飛び込んだ友人を通して、人間社会の意味、物語の意味を問う。豊かで複層的な小説となっている。「緑の家」とは異なる知的で豊饒な世界がそこにはある。

密林の語り部 (岩波文庫)

密林の語り部 (岩波文庫)

●死は死ではなかった。それは、行き、還ってくることであった。弱めるどころか、それは人々をたくましくし、残った人々に旅立った者の知恵と力を付け加えた。《私たちは今日も、明日も生きていく》と、タスリンチは言った。《私たちは死ぬのではない。行く者は還ってきた。彼らはここにいる。彼らは私たちだ》(P54)
●語り部、あるいは、複数の語り部は、共同体の郵便配達夫のようなものなのだろう。マチゲンガ族が散らばっている広い地域を部落から部落へ移動し、ある人々の活動を別の人々に話し、身内の出来事や冒険や不幸をめったに、あるいは、決して会わない兄弟に交互に伝える人物。・・・彼らの言葉は、生き延びていくための闘いが四方に分かれ、散っていかなければならない社会をつなぎ合わせる紐帯だよ。・・・「それに・・・語り部は、現在の便りだけを持ってくるのではないという気がする。昔のことも話す。たぶん、共同体の記憶でもある。おそらく中世の吟遊詩人や歌人の似た役割を果たしているんだよ」(P126)
●伝道師は密林に呑み込まれていく。・・・カトリック教会でさまざまなことが進行していくなかで、そのうち、アマゾンどころか、リマの司祭もいなくなってしまうよ。/しかし、言語学者は違う。彼らの背後には、進歩や、宗教や、価値や、文化を植えつけることができるような経済力と非常に効率的な機構がある。・・・自分の国でインディアンやそのほかの原住民にしたのと同じように、ただ地図の上からアマゾンの文化と神々と制度を消し去り、夢の中まで破壊するためではないか。(P131)
●月が寂しい思いをしないように《好きなのを選んで連れていけ》と、タスリンチは言った。それで、カシリは蛍の女たちを指さした。・・・あの上の星、それはここにいる蛍たちの女房だ。彼女たちはそこにいる。色好みの月のために昇っていった。妻を失った蛍たちはここで待っている。だから、星が一つ転がり落ちてくると、蛍は狂ったように騒ぐのか?・・・太陽も一人で生きている。輝き、温かさを与えている。カシリのせいで夜になった。太陽は、時々、家族が欲しかったのだろう。たとえどんなに悪い父親であろうと、肉親の近くにいたかったのだろう。だから父親を捜しに行くのだろう。そのたびに落ちていくのだ。それが日没らしい。(P176)
●《大切なことは、焦らず、起こるべくことが起こるにまかせることだよ》と、彼は言った。《もし人間が苛々せずに、静かに生きていたら、瞑想し、考える余裕ができる》そうすれば、人間は運命と出逢うだろう。おそらく不満のない生活ができるだろう。身につけたことを忘れることもない。だが、もし急いて苛立ったら、世界が乱れるだろう。魂が泥になかに落っこちてしまう。(P259)