子どもの頃は勉強にも得意分野や不得意分野があって、高校生になると、理系・文系に分けられ、次第に自分の専門分野が決まっていく。私の場合は数学や物理がそこそこできた一方、英語が壊滅的だったため、自然と「理系」に分類され、親の職業に近い専門分野ということで「建築」を専攻した。
しかし実は読書が好きで、高校生の頃は哲学書や文学書、小説などを読み漁った。しかし文系に進む友人と比べれば、これまで蓄積された読書量は雲泥の差で、受験勉強の合間の読書量ではその差は埋め難く、一時は文系受験も考えたが、壊滅的な英語の成績もあって、最後は素直に理系に進学した。
しかしその後も読書は好きで、また哲学や宗教学、社会学などへの興味は高く、大学1・2年次の一般教養ではこれらの科目を選択した。成績は大してよくはなかったと思う。もっとも大学2年次にようやく夏目漱石を全書読破する程度だから、大して本を読んでいたわけではない。単に好きだっただけ。
就職後は、司馬遼太郎の好きな先輩に倣って「街道を往く」全巻を読み、本多勝一を読み、大江健三郎を追いかけ、村上春樹に耽溺し、小川洋子や多和田葉子にはまる。その他にも、その時々、流行作家を追いかけ、気に入った評論を読み、パソコンが一般的になると読書記録を残すようにして、最近はこのブログで公開している。まったくの雑読だ。
それで先日、ふと思った。私の専門って何だ? もちろん、「建築職」として現在の会社に採用され、求められる仕事を続けてきたわけだが、同時に、文学も哲学も宗教学も社会学も全部知りたい。と言いつつ、建築分野以外の知識は、それらの専門家に比べればまったく幼稚なのは自分でよくわかっている。いや、建築だって大して知らない。
それで振り返る。得意分野って確かにあった。英語は大嫌いだし、今でも全然できない。たぶん適性ってあるんだと思う。一方で知りたい、分かりたい気持ちは衰えない。本当は英語だって使えるようになりたい。全世界のすべての小説を読むことができたら、文学の専門家になれるのだろうか。すべての宗教書、すべての哲学書を読んだら、それらの専門家になれるのだろうか。どうもそうは思われない。
でも、まったく小説を読まない建築家に比べたら、私の方が文学の専門領域に少しは近付いている? まったく社会学に興味のない友人に比べたら、私の方が社会学の専門領域に近付いている? どうなんだろう? 本当の専門家は、専門領域の知見について広く知っているだけではなく、その分野で独創的な、または画期的な発見や理論を組み立てた人のことを言うのだろうか? そうだとすると、私は建築の専門家ではないことになる。世界中に専門家は数少ないことになる。
いやそうではない。自分は自分の専門家なんだ。この家庭の中で、この職場の中で、こんなふうに行動し、仕事のできる人は自分以外にない。自分は自分の専門家。
専門分野って、ホント、何のことだろう?