今読んでいるエマニュエル・トッドの「『ドイツ帝国』が世界を破滅させる」の中に、ロシアの男性優位主義やアンチフェミニズムの問題に関して、「ロシアの大学では男子学生100人に対して女子学生は130人を数える」と指摘する記述がある。ロシア社会が実際に男性優位主義なのかどうかについてはその記述がないのでわからないが、もしそうだとすると、社会が男性優位であっても女性の知識欲は高いということになる。
先日、男女共同社会推進に向けた取組の一つとして「リケジョの進路!きっかけシンポジウム」の案内を見かけた。最近は理工系の学科に進学する女性も多く、「リケジョ」ともてはやされる。去年の小保方氏の事件で少しミソをつけた感もあるが、従来の薬学部などから、最近は農学部や工学部までどの学部でも元気な女子大生の姿が見られる。
高齢者を対象とした生涯学習の取組も各地で行われている。名古屋市では「高年大学鯱城学園」という名称で30年前から開校され人気を集めているし、地元春日井市では「かすがい熟年大学」が毎年募集されている。毎週、本を借りに行く市民センターでも会議室で様々な教室が開かれていて、高齢者が多く参加している姿が見られる。
私自身は、あと数年で定年を迎える年齢となり、昨年度は退職者に再就職先を紹介する仕事も担当して、定年後の人生について考えることが多くなった。ただ正直、最近は仕事に疲れ気味で、60歳過ぎて新しい仕事にチャレンジする気力もなく、かと言って、年金支給年齢も延伸されたことから、しばらくは働かざるを得ず、生活のために働くということが身にしみて重く感じられるようになってきた。
これまでは生活のためというよりも、会社からの期待に応えることがある意味当たり前でもあり、いわゆるやりがいでもあったのだが、定年が目の前にチラつくようになると、今さら会社のためもやりがいも失せて、いったい何のために働いているのか、生きているのかと自問する日々が多くなった。これは多分に最近ヒマな時間が多いことが原因だとは思っているが、忙しくなればなったでやはり「何のために忙しい思いをしているのか」と同じことを思うような気もする。一方で高齢者が図書館で無為に時間を過ごしている姿を見たり、高齢者大学の案内を見ても、残された人生をいったい何をやって過ごせばいいのかと思ってしまう。
そこで最初に戻るが、ロシアの女子学生は何のために大学へ通うのかと思ってしまった。その次に紹介した「リケジョの誘い」のイベントは、大学等で学んだ知識や能力を社会に還元してねという、要するに女性を労働力と見てこき使おうというもので、これは最近の日本の女性施策に適うものだが、女性は働きたいから大学へ進学するのだろうか。いや、女性だけでなく男性も一緒だが、若者は働くために大学へ行くのか。
自分自身を振り返ると、確かにそういう思いはあった。だからこそ、大学卒業前の夏に就職先が決まったら、大学院試験をさぼってしまったのだが、今思えば、なんて浅はかな行動だったかと後悔をしている。当時の自分には知識欲はなかったのか。実際は先輩に嫌な人がいて、環境を変えたかったというのが大きな理由だったように思う。結局のところ、就職後には研究的・企画的な業務を担当することが多く、それがいきがいになったりしている。
話がふらふらしているが、言いたいことは、要はこういうことだ。人間にとって知識欲・学習欲に身を委ねることは悪くない。社会のためとか、仕事のためではなく、純粋に知識欲・学習欲を追求することはたぶん本能だ。死んでしまえば蓄えた知識や能力も文字通り雲散霧消してしまうが、それが人間というものだろう。蓄えた知識や能力が残された者にとって有益で、かつ利用できる形で伝えられるとすればそれは嬉しいだろうが、そんな人はほとんどいない。ほとんどの人間は後世に何も伝えられず死んでいくのだから、ただ欲望に身を任せればいいのだ。知識欲という欲望に。それが生涯学習の意味だろうか。