とんま天狗は雲の上

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「どうする家康」で三河を楽しむ。

 NHK大河ドラマ「どうする家康」を最初から見ている。昨年の「鎌倉殿の13人」ほどには面白くないが、家康の居城が岡崎ということで、ここしばらくは三河での出来事が続き、興味深い。第6回の「続・瀬名奪還作戦」では、今川氏家臣の鵜殿長照が守る上ノ郷城の攻防が描かれたが、「上ノ郷」と言えば、蒲郡市の「神ノ郷」のこと。たぶん私の祖父が生まれ育ったところで、親戚も住んでいた。

 そして第10回「側室をどうする!」に登場したお葉は「西郡(にしのこおり)」出身。別名、西郡の局。「西郡」と言えば、「蒲郡」自体がそもそも「西郡」と「蒲形(かまがた)」が合併してできた地名。お葉の方の養父、鵜殿長忠は鵜殿長照の弟で、柏原に城を構える。ちなみに柏原はみかん農家が多く、今も叔母が住んでいる。

 蒲郡が西郡と蒲形の合併地名ということは知っていたが、調べてみると、明治9年のことで、二つの地名から1字ずつ取って新しい地名とするなんてことが当時から行われていたのだと驚いた。ちなみに蒲形には母方の祖父の実家があり、今も母方の叔父が住んでいるが、今は蒲形という地名はなく、「蒲形公園」という公園の名称として残っている。

 私の実家はJR蒲郡駅からまっすぐ北に上がる国道473号沿いにあるが、この辺りは蒲形なのか、西郡なのか。気になったので少し調べてみた。すると、銀座通りのある通り、東は秋葉神社から西は薬證寺までの間が「西郡」と呼ばれ、賑わっていた。蒲形というのは、西郡も含んだ地域全体の名称で、そもそも「蒲」は源頼朝の異母弟、蒲冠者源範頼の所領だったところから来たようだ。

 ちなみに現在、蒲郡高校のあるところがかつての下ノ郷城の跡で、その南の住宅地の中にこんもり茂った林があるが、そこが蒲形陣屋の跡。新住所表記になる前、私の実家の旧地名は「東廓」と言ったが、まさに下ノ郷城の一郭だったようだ。参考したサイトの一つ「蒲郡地名考」には、他にも、東町と西町や、東廓・西廓、新井町と新井形町、大宮神社と宮成町など地元の人間にとっては興味深い論考が書かれている。ちなみに筆者の鎌田篤司氏は現在も市会議員を務めている。

 「どうする家康」から始まって、実家のある蒲郡のことを懐かしんでいたら、中日新聞県内版の連載「あいちの民話を訪ねて」に「竹千代と犬飼湊」が掲載された。「犬飼」と言えば、母の実家があったところ。海が埋め立てられて久しいが、新聞には埋め立てられる前の写真が載っている。昔、母方の祖父はこの海の先で海苔の養殖をしていた。母の実家で海水パンツ一つになって海まで走り、海辺で遊んだことを思い出す。

 こんなことをフェイスタイムに書き込んだら、三河国分寺を訪ねた高校時代の友人から、「三河の国は元々西三河のことで東三河は穂(ほ)の国。合併して「三河」を国名をする代わりに、国府は穂の国側になった」と書き込みがあった。国府国分寺って、奈良時代の話。昔のことを調べ出すと、いろいろ興味深い歴史が見えてくる。面白い。

 

※他に参考にしたサイト

「蒲形城:史跡夜話」「蒲形陣屋:あいちを巡る生活って」