とんま天狗は雲の上

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カズオ・イシグロを読む

 カズオ・イシグロの文学的批評を初めて読んだ。本書では、まだカズオ・イシグロを読んだことのない読者も想定してか、イシグロの各作品ごとに中心的なテーマを取り上げ、一つひとつ批評していく第1部の「作品編」。そして第2部では、各作品に共通する「モチーフ」を取り上げ、掘り下げていく。

 なるほど、そう読むのかと思うことしばしば。「充たされざる者」などは内容も混沌としていて、うまく捉えきれなかった。「わたしたちが孤児だったころ」も特に後半は混沌として、どこまでが主人公の経験で、どこからが想像や夢想の世界なのか、わからなく混乱したまま読み終えたような印象が残っている。この2作品についてはもう一度読み直したい。「わたしを離さないで」も何となく中途半端な感じで終わる。中途半端と言えば「日の名残り」「遠い山なみの光)もそうだったような気がする。そしてそれこそがイシグロ作品の特徴なのだった。

 村上春樹などは、自らの作品に対してコメントすることは少なく、書き始めには特に決めたストーリーもなく、自動筆記のように綴りながら、作品が生み出されていくというようなことを言っている。だが、本書でも何度か引用されているように、カズオ・イシグロはしっかりとした構想を持ち、出版後にはその意図なども自ら説明をしたりしている。村上の言うこともわかるし、イシグロもすべてが最初から頭に入っているわけではなく、書きながら紡いでいく部分もあるだろうが、後から説明をする態度はさすがだと思う。

 イシグロは多くの作品を通じ、常に人間の不確かさ、不合理性をテーマにしている。そして巻末の「終わりに向かって」で書かれているように、たとえ我々がどれほど不完全な存在であっても「これからも『大丈夫』と我々に呼びかけ続けてくれ」(P260)ている。それが我々に大きな勇気と慰めを与えてくれる。また、カズオ・イシグロの世界を味わいたくなってきた。

 

 

○イシグロは…インタビューでの自作解説で、「我々は執事のようなものだ」とコメントしており、我々の視野も多かれ少なかれ限定されたもので、その中でベストを尽くすしかなく、その点でより善き主人に仕えることで自尊心を保とうとするスティーブンスと変わらないのだと強調する。イシグロは、彼らが特に愚かなのだというのではなく、むしろそれが普通であることの比喩として執事を用いていると述べる。(P76)

○語り手の意志的な叙述の構築の外側(あるいは裏側)には、意のままにならない無意識という広大な混沌が広がっているのだというイシグロの認識を表している。つまり名探偵を自称しながらも、両親の行方に関して合理的な判断力が不足している(希望的観測が過ぎる)ように見えるバンクスの姿は、どれほど合理性を洗練させようとも未来や過去の混沌という盲点からは逃れられないことを我々に示している。(P98)

○すれちがい、かみ合わないように見えるやりとりの中で何らかの感情やメッセージの交流が起こるという、間接的なコミュニケーションの多彩なバリエーションが示されるだけでなく、コミュニケーションとは本来こうした不全とも地続きであることを指し示しているようにも思われる。(P176)

○記憶を継承するという行為は、個人的なものだけでなく、実際には経験していないものも含めた集合的な営みとしてイシグロ作品に描かれる。だがそこで継承される記憶の叙述は、必ずしも当初に意図された通りに受け継がれるわけではない。…記憶イメージをただ受動的に受け取るのではなく、それを自分なりに補正したり、時には反発したりして、その叙述形式にも積極的に関与している。そして…どの記憶を継承する、あるいは忘れ去るかを選別する行為は必然的に「権力」の問題へと結びついており、我々はしばしば気づかぬうちにそこに巻き込まれている。(P198)

○イシグロにとって、あらゆるものから逃げた先にあるのは少なくとも自由ではない。彼にとっての最終的な限界線とは、おそらく「死」と「忘却」なのだから。…イシグロはノーベル文学賞の受賞スピーチの結びで、世界は「多様」であるべきだと呼びかけている。そして…彼の作品群はその試みがどれほど困難であるかも示している。だがそれでもイシグロは、未知のものに触れて、耳を傾けることでそうした障壁が打ち破られる可能性を捨ててはいない。彼が誰よりも世界の深淵に近づきながらも、これからも「大丈夫」と我々に呼びかけ続けてくれるだろう。(P258)