とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

公務員の数

 ギリシャの経済危機とデモ報道で公務員数が日本に較べて非常に多いことが報じられ、「だから経済危機なんかになるんだ」といった論調がマスコミ等でみられた。これを日本に翻ると「日本の公務員数は少ない」となるべきだが、なぜか「ギリシャの二の舞にならないよう、もっと行政改革を進め、公務員の数を減らそう」という論調になっている気がする。
 一方で、「日本の公務員数は少ない」と主張するブログもいくつか散見される。「地方公務員拾遺物語 別館」はかねてよりデータ・ベースで公務員の給与問題について主張しているブログだが、「どこまでがみなし公務員か:地方公務員拾遺物語 別館」を見ると、公務員と一口に言っても、どこまでを公務員とするかについて明確な定義・同意がされていないことを想像させる。
 確かに「公務員と民間人のラインって何でしょう?」と考えると、国によって、社会制度によって、歴史や文化によって、相当に開きがあり、何が適正な公務員数かは一様に設定できないことに気付く。
 日本でも郵便局の民営化によって大幅に公務員数が減少したが、「実態はいまだに公務員じゃないの」と考えている人が多いだろう。ましてやまた公務員度を高める法改正がめざされているし。しかし一方で、郵便配達業務による収入が相当な部分を占めているとすれば、その収入により雇用されている職員を単純に公務員とするには抵抗がある。ヤマト運輸の社員が100%民間人とすれば、郵便局の配達職員は切手収入の割合に見合って、数十%が民間人、残りが公務員のハイブリッド公務員と言える。
 同様のことは市役所等に勤務する一般の公務員にも言える。住民課の窓口の職員も手数料収入分は民間人な気がするし、公営住宅を担当している職員も家賃収入の割合で公務員度が決まりそうだ。
 逆にもっぱら公共事業に依存している建設会社はある意味、100%公務員と言える。公共工事をすべて直営で公務員自らが作業員となって行うことを想像すればいい。介護サービスの場合も、介護保険導入後の介護事業所は、自己負担10%があるものの残りは保険料を充当しており、公的制度によるものは公的資金と考えれば、介護保険事業所職員は90%公務員と言える。同様に、医療従事者も自己負担分を除きほぼ100%健康保険料が充当されているのだから、公務員度約7割と言える。
 そう考えていくと公務員数を云々することに大して意味がないことがわかる。それよりは公的な資金の大小を考えるべきだ。GNPに対する公的支出の額こそが問題とされるべきだが、これとてどこまで公的支出の対象とすべきかは社会制度や文化、国家の豊かさや貧富の差等によって一義的に決まるものではない。
 公務員数や予算額といった目に見える数値だけで評価するのではなく、行政活動や社会的制度により達成されている現状と将来の負担や変動などを見越して総合的に判断すべきだ。そんなことはわかっているが、それが一番難しいから安易な数字に頼ってしまうのだろうが、数字に安易に乗せられるべきではないのも事実だろう。
 日本の公務員は多いのか、少ないのか。それは一概には言えない、ということをよく覚えておこう。