とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「チェルノブイリ萌え」に戸惑うのなら、「兵器萌え」は不謹慎ではないのか?

 先日、友人との呑み会の席で、戦闘機の話になった。「自衛隊のF-○戦闘機」などとみんなやけに詳しく知識を披露したがる。「それって殺人のための道具でしょ」とか「日本の空を守るって言うが、それは本当に有効なのか」など、しばしささやかな抵抗を試みたが、みんなの熱は上がるばかりなので途中で話に加わらないように撤退した。
 いや、戦闘機などがカッコイイのは理解できる。僕も子供の頃は単純に「0戦はやと」とか読んで喜んでいた。「紅の豚」も観た。「風立ちぬ」を観たい気もある。しかし結局それらは戦争のための兵器であり、殺傷のための武器であることを思うと、手放しで喜ぶことには戸惑いがある。
 などと思っていたら、「『住宅都市整理公団』別棟:『旅』とは何か。『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』Tweet」大山顕チェルノブイリ原発の現在の写真を「かっこいい!」「萌えた!」と感動している。もっとも彼もただ感動するのではなく、「不謹慎ではないか」とか、「事実へ迫る入口としてはありなのでは」とか、揺れる心情を吐露している。
 そしてチェルノブイリ博物館では見学者の感情に訴えるために「宗教」と重ねた展示がされているという紹介がされていた。大山氏は、宗教は感情ではなく象徴ではないかといった視点で以下の話題は展開していくのだが・・・。
 宗教! まさに仏像や寺院などは宗教物や宗教施設だが、僕らは奈良や京都でこれらの宗教物を鑑賞する時には、その宗教性を考慮することなく、単なる美術品として鑑賞している(ある特定の宗派の美術品や施設には近寄らないとしている宗教者もいると聞くが)。だとすると、兵器だからといってその鑑賞を拒否するのは偏狭なのかもしれない。
 では兵器の何を鑑賞するのか。機能美だろうか。確かにわからなくもない。ただ、大山氏らのドボク萌えは、設計者や施工者が美を意識せず建設した施設に美しさを見出すのに対して、兵器も本当にただ単に機能性だけを追求した結果の美だと言えるのだろうか。中国・韓国との外交が問題となる一方で、有川浩自衛隊モノがヒットする現状がある。有川浩自衛隊を過剰に凛々しく美しいものと賛美・賞揚する風潮を作ってはいないだろうか(読んでいないから知らないが)。僕らはこの時代背景の中で単純に兵器の機能美を喜んでいていいのだろうか。
 兵器の美を称賛するのは「不謹慎ではないか」という戸惑いがあまり支持されない現状に疑問を持ってしまうのはやはり偏狭なのか。それでも素直にみんなの会話に溶け込めない自分がいる。もちろん無理して溶け込む必要はないのだが、それでもちょっと考えてしまった。