とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

生物多様性

 「2010年に名古屋でCOP10が開かれました」。本書はそういう書き出しで始まっている。そう当時、名古屋では生物多様性のことが新聞等で大きく扱われ、話題になっていたことを思い出す。あれからもう5年も経つのか。でも筆者は「生物多様性(に関する)関係書を・・・いくら読んでも、なぜ生物多様性を守るべきかが腑に落ちるように書いてある本に出合えなかった」と言う。私も本を読んだということはないが、どうして生物多様性が大事なのか、新聞等で書かれていることは理解しても、本当のところはよくわからなかった。結局、新薬開発のための利権争いかという程度の認識のまま、それ以上深く考えることもなく、イベントが終わればそのまま忘れてしまった。
 それで図書館でこの本を見かけたときもそれほど読もうという気はしなかったのだが、何気なくページをめくったら、執筆された本川氏はナマコの研究をしている変な先生ということがわかった。本書の冒頭と末尾には譜面も付いている。そういえばTVの教養系バラエティで見たことがある先生だぞ。しかも冒頭に「なぜ生物多様性を守るべきかが腑に落ちるように書いてある本に出合えなかった」なんて書いてある。これはひょっとして面白いかもしれない。興味を持って読み始めた。
 意外に真面目。というか、最初は生物多様性とは何かについて書かれているのだが、多様性の高い熱帯雨林サンゴ礁について紹介をし始めると、次第に生物学そのものの講義になってくる。食物連鎖共生の実態。そして単細胞生物から多細胞生物へ、進化による多様性をたどり、ダーウィンの進化論にたどり着く。そしてさらに生物とは何か、生物学は物理学などとはどの点で異なるのかといったより高次な視点に移っていく。ただの変な先生ではなく、けっこうすごい先生なのかも、とますます本書にのめりこんでいった。
 そこで展開されるのは、果たして「私」とは何かという疑問である。現代社会では物理的な「粒子的私観」が基本になっている。私は唯一無二の存在で、個人の自由な権利と尊厳を認めるというのが現代人にとっては常識になっている。しかし本当にそうだろうかと疑問を提示する。仏教や上田閑照などの東洋哲学などを引用しつつ、「私」とは実は個人の中に閉じて死んでいくだけの存在ではなく、親・子・孫・曾孫・・・とつながって時間軸に、またパートナーや友人など横の人間関係、さらには人間が生存する環境までも「私」の一部として捉えることができる。「環境は私だ」と捉えることで、生物多様性の問題も自分自身のこととして捉えることができるのではないだろうかと主張する。
 実にこの「終章 生物多様性減少にどう向き合えば良いのか」は示唆に富み、興味深く考えさせられる。生物学の世界から突然、哲学・倫理学の世界に引き寄せられるのだ。そしてそれこそまさに生物学が物理学とは異なるところ。「価値」が研究の俎上に上がってくるのが生物学の特徴だという。
 生物多様性は、自分自身の多様性に通じ、自身の価値に通じる。だからこそ多様性は守らなければならない、という議論は確かに面白い。もちろん絶対に「正」というのではなく、正しく思える。「価値」とは本来そのように揺れ動くべきもので、だから生物多様性は絶対正しいということではなく、それを考えることが人間を、生を考えることにつながる。だからこそ生物多様性は重要であり、価値があるのだろう。面白い本を読んだ。想定外に面白かった。本川先生は他にも「ゾウの時間、ネズミの時間」も執筆していた。そうか面白いわけだ。また見かけたら読んでみよう。

●交配する集団の遺伝的多様性が高いほど適応度(生きのびて生殖年齢に達した子の数)がふえることが知られており、栽培種が病気にかかるようになったら、より野生種に近い系統から遺伝子を導入してやる必要があります。・・・二十世紀だけでもバナナ、サトウキビ、カカオ、コーヒーなどの重要な作物が、野生種からの遺伝子導入によって壊滅的な打撃から救われました。(P28)
●物理学では「なぜ」には答えられないのです。神様がそうつくったとしか言いようがなく、だから「なぜ」は物理学では問うてはいけない疑問なのです。/ところがその「なぜ」を、生物学では問えることを示したのがダーウィンでした。・・・「なぜ」とは、それがそのようである意味や目的や価値を問う問いです。進化の結果、翼を持つ意味や目的や価値が生まれてきたから、このような問いに答えられるのです。(P162)
●「私」に関しては二つの見方ができ、どちらも正しいということでしょうね。一つの見方とは、今の私のような遺伝子の組合せが再び起こる確立はゼロに近く、今の私は古今未来、どこにも存在しない唯一のものであり、そしてこれは必ず死ぬ。もう一つの見方は、「私」は、親、今の私、子、孫、曾孫、玄孫、来孫と、同じものが途切れることなく現れ、死なずにずっと続いていく。・・・必ず死ぬものと死なないものという、絶対的に矛盾するものが自己内に同居しているのが生物、つまり絶対矛盾的自己同一物が生物なのだと、西田幾太郎的な言い方をすれば、そうなるでしょう。(P198)
●「私は無い」などとにべもないことは言わずに、私はあるのだが・・・苦労して育てている子どもも<私>、相互作用子として取り込んでいる相手も<私>と、<私>の範囲をより広く捉えるように提案したいのです。・・・粒子的私へのこだわりを捨てれば、「私は無い」とも「環境は私だ」とも見ることができるようになるのですね。環境が<私>だとすれば、多様な生物たちのつくり上げている環境の問題は、まさに<私>自身の問題。(P255)
●「利己主義は大いに結構。でもその己とは何かを考え直して欲しい。・・・次世代も環境も<私>とみなす、時間的にも空間的にも広い利己主義にすれば、まわりとも未来ともつながった豊かな己を実現できる。そして<私>も社会も永続できる」と主張したいのです。/生物多様性は、<私>が永続するという、生物として最も基本となることを実現するために必要なものであり、かつ、<私>が豊かな生を生きるためにも真っ当な人間になるためにも必要なものなのです。だから生物多様性を守るべきなのだ―これが本書の結論です。(P276)