とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

帰還の謎

 全393ページの厚さは少ししんどいかなと思いつつページを開いた。最初、「電話」というタイトルの詩で始まる。父が死去したという電話だ。その後も、詩が続く。少し後ろを開いてみると、詩と散文が続く。短い文章とところどころに散文が連なる形式なら、このページ数でもけっこう早く読み進むことができる。
 第1部「ゆっくりとした出発の準備」では、父の死の報を聞いたところから、ニューヨークに駆けつけ、そしてハイチへ向かうところまでを綴る。父親との思い出。亡命後のモントリオールでの日々。だが、実際には父親は25年近く前に亡くなっている。だからこれはすべて小説世界の出来事だ。
 第2部「帰還」でハイチへ帰る。亡命以来実に33年ぶりの母との邂逅。妹との実務的にして親和的な会話。小説家志望の甥。ハイチで暮らし続ける友人たちとの出会い。久しぶりに見るハイチはあまり変化もなく、暑さの中に埋もれている。貧しさと売春と暴力と思いやり。倦むような日々のあとは政治革命を模索した父の友人たちを訪ねる。その後、大臣も務めた成功者の友人に車を借り、田舎に暮らす友人を巡る。純朴な人々との出会い。最後に父の故郷バラデールの墓地で地元の葬儀とともに父を心の中で葬る。そしてカナダへ帰る。
 時間がゆるやかに流れる。ハイチ人だが、モントリオールに長く暮らし、既にハイチ人ではなくなっている。変化に驚き、変わらないものに驚き、人々の生活を思う。「帰還の謎」というタイトルだが、「謎」はどこにあったのか。たぶんそれは筆者の心の中にあったということなのだろう。

帰還の謎

帰還の謎

●気づくのが遅すぎたのだ。ルールなんてないし、天国もない、だから自己犠牲はむだだった、ということに。失敗した人生。そして、誰かがその代価を払わなければなない。もっとも弱い者が力一杯殴られるだろう。しかし彼らが生きるためのエネルギーを取り戻したと思う瞬間は、彼らの敗北の瞬間でもある。/ぼくは眠りに取り憑かれる前に/一瞬思念の中に逃避する。/とても甘美な転落だ。/ひとつの町で眠り/別の町で目覚める。(P80)
●あの世は、自分たちがいつか訪れてみたいと期待する/ただひとつの国だ。・・・当時人びとは死を旅にたとえていて、/ぼくはどちらかというと、死を夢見ていた。/死はいつ訪れるかもしれなかった。/うなじに弾丸がひとつ。/真夜中に赤い輝き。/死はあまりにすばやく訪れるので/それが来るのを眺める時間はけっしてなかった。/この速度が死の存在を疑わせた。(P126)
●ハイチ人に変身するには/クレオール語を話すだけでは充分でないということが/分かったのは、そのときだ。/じっさい、ハイチ人というのは現実に即さない/あまりに漠とした語だ。/人はハイチの外でしかハイチ人になれない。/ハイチでは、むしろ/同じ町の出身か、/性別が同じか、/世代が同じか、/宗教が同じか、/相手と同じ地区の出身か、ということが問題なのだ。(P256)
●ぼくは自分が/北国にとっては/堕落した人間だと/感じた。そのとき、/この熱い海の中で、/バラ色の夕暮れのもと、/時間が突然、液体に変わった。(P317)
●ここの人たちは/嘆く習慣がない。/彼らはあらゆる苦しみを/歌に変えてしまう才能をもっている。/そして真昼に女たちが/大きな帽子の陰で/噛むタバコは/人生の苦い味わいを紛らせてくれる。(P349)