とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

聖女伝説

 1969年に発行された本が文庫本として帰ってきた。初期作品の一つ。飛魂などに通じる妄想的な世界観が疾走する。聖書からと思われる(かなり改竄してあるように思うが)言葉がたびたび引用されながら、少女が次第に成長していく様子を描く。両親の友人である鶯谷による嫌がらせ、悪女イザベルに似た図書館職員との交流、そして宗教的パンフレットを押しつける団体と接触し、そこから逃亡しようとして落下する。しかし言葉と想像力の奔流が落下を地面まで押し留める。時間が延びる。地面すれすれで宙に浮く。

 併録されている書き下ろしの外伝(どういう意味だ?)「声のおとずれ」は盲目の女性詩人に会いに行く話だ。だが最後には赤ん坊となった詩人の身体を抱き、床に叩きつけて殺してしまう。いったい何が言いたいのか。追い詰められた気持ち。でも何から? 社会から、ドイツの異文化の中で?

 多和田葉子の作品は「雪の練習生」から読み始めたけど、こうしたストーリーのある作品の方が読みやすい。ドイツで長く暮らし、精神的に落ち着いてきたことでようやく僕らの理解できる作家になったということか。この時代の多和田葉子にはなかなかついていけない。

 

聖女伝説 (ちくま文庫)

聖女伝説 (ちくま文庫)

 

 

○悪い者は火の中に投げ込まれるというのは、わたしにはどうしても信じられませんでした。・・・火にとっては、悪人と善人などという区別は全く意味を持たないに違いありません。火にとっては、それが水分を含んでいるかいなか、つまり、どのくらい燃えやすいかという問題の方がずっと大切なのです。だから、火に投げ込まれるのは、肌の乾いた人間、こけしになりかかった人間、わたしのような人間であるに違いありません。(P103)

○もちろんこのように悪意に満ちた言葉は、わたしの頭の中から自然に湧き出てきたのではありません。聖書の中で見つけた一節を書き写したのです。手紙の差し出し人がわたしだということが知れてしまった場合にも、それがわたし自身の言葉ではなく、聖書の言葉だということになれば、罪が軽くなるように思ったのです。聖書は便利な書物でした。頭が空洞になって、火のような言葉を吐きたいのにそれが見つからない時には、聖書を開けばいいのでした。(P123)

○逃げることを一度選択してしまったら、逃亡者という役割から逃げるのは大変です。奇跡を待つしかありません。逃げるのは、追ってくるものとの距離を作り、それを伸ばすことです。でも距離を作ろうとすると、逆に距離が消えてしまうこともあります。それどころか、いつの間にか追って来る人たちと足並みを揃えて走っていたりします。そこから更に逃れるのは、どうしたらいいのでしょう。ころぶしかありません。ころぶのには、勇気がいります。ころぶのは、失敗することです。取り残されることです。怪我をすることです。(P179)

○相手の弱みがどんどんわたしの中の邪悪さを引き出していく。このまま放っておいたらわたしはどうなってしまうのだろう。防波堤をつくらなければいけない。頑固な正義感、融通の利かない、言い出したら聞かない真実一辺倒、馬鹿正直さ。それが今の私を救ってくれるかもしれない。(P262)