多和田葉子がドイツ語で書き、関口裕昭が訳した。パウル・ツェランはユダヤ系のドイツ語詩人で、両親をナチスに殺され、自身は労働収容所で肉体労働を強いられるなどの経験した後にフランスでその後を暮らし、しかしドイツ語で詩を書いてきた。そして剽窃疑惑などに翻弄された結果、精神を病み、50歳を前に自らの命を絶っている。
多和田葉子は高校生の時にパウル・ツェランの詩と出会い、大学卒業後、ドイツに渡って今に至っている。その間、パウル・ツェランを深く研究したのだろう。本書ではツェランの詩から引用した言葉が散りばめられている。訳者の関口によれば、ツェランの詩を縦横無尽に織り込んだ文章を翻訳するのに難渋したそうだが、本編の小説自体は130ページ程とそれほど長くはない。ただ、訳注が50ページ近くもあり、ツェランの詩の一片が多く紹介されている。「本文と合わせて注釈を読む『注釈付き翻訳小説』」として読んでほしい」と訳者解説にあったが、そうすることでさらに難解。本文のみを先に読めばよかった。とは言っても、それだけでも相当に難解だが。
話の筋は難しくない。パウル・ツェラン研究者のパトリックが中国人らしき青年と会話をする。どうやらパトリックはツェラン研究を発表するために向かったフランス行きの飛行機が墜落し、一緒に命を落としたらしい。そして中国人らしき青年、レオ=エリック・フーは天使。ツェランを研究し、ツェランと一体化してしてしまった青年は、ツェランと同様の精神の闇の中で天国に召されていく。たぶんそんな話。
多和田葉子らしいと言えばそうだが、それにしても難しい。ようやく読み終えた。うーん、しばらく現実世界に戻って、生活しよう。
○コンサートホールに入れるのは市民だけだ。患者はひそかに…自分は市民であるたいと望んでいる。…そして国民は独裁者の側に立っている。…彼はむしろ空っぽの観客席に座っていたいのだ。ここで「空っぽの」とは同時に死者で満ち溢れているということだ。死者はチケットを買うことができないので、コンサートホールは公的には空っぽということになっている。(P10)
○死者は…音楽のあるところにやってくる。患者は、自分のまたこの場に居合わせるために死んでいなければならないと考える。…いや、さらに正確に言うなら、死んでいくという思いが。どのように人は死んでいくのだろう。死ぬことはそれと同じものではない。喜ばしく死んでいるということと常に居合わせるということ。(P10)
○わたしが家から出ると同時に家にとどまっているので、彼らはわたしが病気だと言っている。追憶の家というものがある。その家を去ることは、また別の家に入ることである。ある世界にとどまりつつ、同時にその世界を去るということは矛盾しない。彼は退場しながら、登場することができる。彼は患者であり続けると同時に、一人のわたしでもあるのだ。(P15)
○人間は体内にもつべきなのは、大動脈ではなく一本の樹木なのだ。身体の部位はいつも無秩序な状態にあるので、神経を苦しめる。目、髭、額、歯、脳、心臓。彼らは医者に診断書を書いてもらうために生まれてきたのか。いや、絶対に違う。わたしは身体をひとりにさせてやりたい。わたしがいない方がきっと健康でいられるだろう。さようなら、私の身体よ!(P64)
○かなりの数の詩はけっして忘れることなく、血管となり繊維と化し、眠りの中で新たな結合をしていく外国語のように、言葉たちはひとりでに網状に繋がっていくのだった。…「ぼくがもう詩について書かなくなってから、詩がぼくの中で書いている。それは外国語のようなものなんだ。そもそも眠りと外国語の関係をわれわれは探求しなければならない。抒情詩じたいが外国語なんだ。抒情詩はぼくの栄養源であり、ときにはぼくが抒情詩の栄養源となっている」(P80)
○パトリックはグラスの中の最後の残りを飲み干して立ち上がり、床にひざまずいて翼を広げた友人の背中の上に腰かける。その鳥の身体は羽毛布団のように柔らかく感じられる。特に温かいというわけではないが、目を閉じて思考のスイッチを切って運ばれて行くのは心地よい。パトリックは自分の歌うパートを締めくくった。…もう歌おうとしなくていいのだ。というのは彼が今入っていこうとしているのは音楽を関知しない時間だからである。(P126)