とんま天狗は雲の上

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陰謀の日本中世史

 「陰謀の日本中世史」というタイトルからは、陰謀渦巻く日本中世史を紹介しているのかと思ってしまうが、そうではなく、何かと陰謀が囁かれる日本中世史について、歴史学の立場から、現時点での研究成果を紹介していく内容の本である。平安末期の保元の乱平治の乱、源平の戦いと頼朝・義経の確執、鎌倉幕府の滅亡と北条家を巡る陰謀、足利尊氏後醍醐天皇鎌倉幕府討幕と観応の擾乱応仁の乱日野富子本能寺の変を巡る陰謀論関ヶ原への道と、平安から戦国時代に至る歴史的に有名な出来事について、通説を紹介し、その上で、様々な陰謀論などを紹介しつつ、それらに反論を加え、穏当な解釈を紹介する。

 人は誰しも、先は見通せず、現実的な判断と行動が、後世から見ると大きな歴史的事件となった。誰も最初から陰謀を考えたわけではなく、目先の利益や現実的な判断が、物事を複雑にして、誰もが思わなかった方向に歴史を導いていった。筆者のこうした歴史学的姿勢が「応仁の乱」のベストセラーを生んだが。本書でもそれを日本中世の数々の出来事に適応し、論じている。そしてそれが面白く、わかりやすく、納得する。

 我々素人には、陰謀論陰謀論と知らず読んでしまい、信じてしまうことが多い。そのことを危惧して本書は書かれた。歴史は奇を衒った天才や陰謀家の筋書きによって作られたのではなく、我々と変わらぬ平凡な人間が、その場に当たって行動した結果として今がある。そのことを改めて気付かされる。人は実に平凡で、しかし歴史は驚きと変化に満ちている。事実は小説よりも奇なり。歴史は平凡な人間が作っているのだ。

 

陰謀の日本中世史 (角川新書)

陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

 

○源野頼朝は以仁王の呼びかけに応じたというより、以仁王源頼政が敗走した後、平清盛が諸国の源氏への監視を強めた結果、むざむざと討たれるよりはと半ば自暴自棄の形で挙兵したという方が実情に近い。・・・以仁王が構想した全国的な反平氏闘争は、図らずも自らの死をきっかけとして、実現したのである。(P67)

○頼朝は平氏軍の補給路を絶ち、持久戦によって平氏を降伏させようと考えていた。・・・ところが義経は短期決戦を志向し、平氏に降伏の機会を与えず、一挙に滅ぼしてしまった。これは平氏に深い憎悪を抱く後白河の意向に沿った行動である。・・・加えて・・・平氏滅亡後の義経が後白河に常用され・・・たことは、頼朝の危惧を招いた。・・・義経に頼朝からの自立の意図はなかったであろう。しかし頼朝は、朝廷と御家人との直接の結びつきを絶ち、御家人は頼朝を介して朝廷に奉仕するという体制を構築しつつあった。(P73)

○当時の武士たちの目には、足利氏は・・・<北条氏の姻戚>として映っていた。・・・「このまま北条氏に追従していたら足利氏は滅びる」という危機感が尊氏を裏切りへと突き動かしたのである。・・・さらに言えば、尊氏は自身の判断で幕府を裏切ったわけではないようだ。尊氏は家臣たち、主に上杉一族の勧めに従って鎌倉幕府を裏切ったのである。・・・上杉氏は・・・後醍醐周辺と接触できる人脈を持っており・・・尊氏は強く影響されたのである。(P146)

○圧勝したとはいえ、反乱の首謀者である時行を取り逃してしまった・・・。すぐに京都に帰れば、時行が勢力を盛り返す恐れがあった。・・・だが後醍醐は一向に帰京しようとしない尊氏を謀反人とみなし、新田義貞らに尊氏討伐を命じた。・・・事ここに至っては、もう後には引けない。尊氏はついに建武政権との対決を決意したのである。・・・尊氏は現状に満足して、天下取りの野望など持っていなかったと亀田氏は推定している。建武政権におけるナンバー1武士と言う地位を大事にする「尊氏の発想の方がむしろ現実的常識的」・・・という亀田説は説得力に富み、筆者も従いたい。(P152)

足利義稙細川高国畠山尚順三者は、恩讐を乗り越えるために<ウソの歴史>を必要とした。そこで細川京兆家は『応仁記』において、足利義視(義稙の父)―細川勝元(高国の養父である政元の父)―畠山政長尚順の父)が協力関係だったという“神話”を創造し、足利義稙細川高国畠山尚順の提携を<あるべき姿への回帰>と正当化した。・・・富子は・・・義稙と尚順の恨みを買っていた。しかも富子は明応5年に亡くなっており、親族も既にこの世にいなかった。富子は、義視排除を企てた悪女として応仁の乱の全責任を押しつけるにはうってつけの存在だったのである。(P197)