とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

テロルとクーデターの予感

 先日読んだ「テロリズムの罠」左巻右巻のテーマであったファシズム新自由主義について、魚住昭との対談形式で論考したもの。先の本でも取り上げた宇野弘蔵権藤成卿についてさらに深く掘り下げているが、本書で特に高く評価するのは大杉栄だ。
 「社会契約論」を訳し日本の民主主義に先導的な役割を担った中江兆民を、天皇を意識したナショナリスト、その弟子であった幸徳秋水は中心性のないアナーキストと評価。とすれば大逆事件は本来起こるはずのない事件であり、偶発的な犯罪を弱体化し仮想敵を必要とした国家権力が起こした事件であると論じる。
 そして、幸徳秋水系譜を継ぐ大杉栄を、国家権力という暴力装置がなくとも人間が本来有する友愛・秩序・相互扶助といった感覚で世の中は築いていこうと考えるアナーキズムAと設定する。それに対して、根底には何もない、何もかも自由であると考えるアナーキズムBの系譜がある。ニヒリズムに基礎を置くアナーキズムBは、実は新自由主義と親和性が高く、その結果、アキバ事件のような人間孤立を生み出し、それを束ねるための思想・政治形態としてのファシズムを生み出す。テロルやクーデターも同じ系譜だ。
 こう考えるととてつもない不安な時代に生きていることになるが、それに警鐘を鳴らしつつ、救いの道も示唆をしている。それが”贈与”であり、アナーキズムAである。
 本書は対談集であるが、「ラスプーチンかく語りき2」という副題が付いているように、魚住昭佐藤優にインタビューするという形になっている。そしてほとんど佐藤優魚住昭に対して講義をしているようである。そうした形も本書がほどほどに読みやすい理由だと思う。そうでなければ、はるかに難解な著作になっていたのではないか。

テロルとクーデターの予感 ラスプーチンかく語りき2

テロルとクーデターの予感 ラスプーチンかく語りき2

●国家と社会はそもそもカテゴリーが違うものなんですよ。(P72)
●国家とは社会の側で暮らす人間の外側にあるものなんですよ(P76)
●日本特殊論なんです、右から左まで。日本型経営であるとか、日本人は語学が下手だとか、”日本人は〜”というほど、私たちは特殊な環境にいるのでしょうか。・・・どこの国も特殊なんです。・・・特殊だという視点は、他者に対する優位性の誇示に転じ得ますしね。(P93)
●国家の介入によって資本主義の再配分を担保していくという考え方は、マルクス主義の話ではなくて、国家社会主義のもので、親和性から言えば、ファシズムに近いんですよ。(P131)
マルクス主義の描く「終わり」はすでに実現することが約束されていますよね。人間社会は、原始共産制から始まり、・・・最終的に共産主義社会が到来して完成されると。搾取や抑圧のない社会として描かれます。これは救済の縮図ですよね。(P155)
●セイフティネットをつくるのは、実は国ではなく、アナーキズムA的な要素を持った個々人が恊働してつくるものだと思うんです。それを国家は権力の恣意的な運用によって壊している。(P207)
●他者への信頼と共同性に基盤を置くアナーキズム理解を私は、相互扶助としてとらえていましたが、そうではなくて、”贈与”なんだなと気付いたんです。・・・贈与という構えが、ファシズムのシナリオに引きずり込まれないためには有効かもしれないなと思い始めたところです。(P208)