とんま天狗は雲の上

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社会をつくる自由

 「集合住宅と日本人」は分譲マンションの管理組合にこそ直接性デモクラシーが存すると言い、そこから論じるガバナンス論として面白く読んだ。
 基本的に同じ主張の上に書かれた本であるが、本書では、自由には「通俗的な自由」と「社会をつくる自由」があるとして、「仲良し社会」を信奉する「コミュニティ至上主義」を執拗に批判する。
 前書でも書かれていたことであるが、防犯のために徹底的に閉じたゲーテッド・コミュニティにこそ直接性デモクラシーを醸成する可能性を有すると称揚する。また、第2章では、ハンナ・アーレントトクヴィルらを引用して直接性デモクラシーの可能性について論考し、バンジャミン・バーバーのストロング・デモクラシーを紹介している。さらに、第3章では、社会に対する「責任」と対比して、本当の自由「社会をつくる自由」について論述していく。
 これらの論考は非常に真っ当なものだが、前書でも感じたとおり、そこから先の代議制デモクラシーへの接続の具体的な方策がわからない。まずは集合住宅デモクラシーで勉強しろ、ということか。
 それにしても、コミュニティ論者への批判は峻烈で冷厳だ。あとがきで、『私は幼少のころから、集団で「群れる」ことが苦手であった。』(P204)と吐露しているが、今もそうなのだろうか。社会への責任論には同感するが、「仲良し」も責任社会の形成に向けた回路を導く可能性があるのではないか。というか、それを峻厳に拒否するだけでは、結局、絵に描いた餅になってしまうのではないかと危惧する。論考のさらなる発展を期待したい。

社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー (ちくま新書)

社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー (ちくま新書)

●社会構成原理の最善かつ唯一の道を「仲良し」に求めるということは、「個人対個人」の人間関係の積み上げにより社会を組成することであり、それは社会関係全体を「仲良し同士の関係」で分節させてしまうことに帰着する。・・・こうした「個人対個人」の関係の集積という社会構成原理には「個人対社会」、つまりそれぞれの個人が社会に直接コミットしていく回路を欠いている・・・それは言い換えれば、個人が自らの意思を社会に対してどれだけ貫徹することができるかという「自由」が存在しないということに相応しよう。(P059)
●元来、都市とはゲーテッド・コミュニティなのであって、・・・このために政治的に居住区を「管制」することで形成される社会関係が必要とされるのだ。・・・都市=集合住宅とは居住者自らが「管制」する居住区をいうのだ。(P084)
●社会が「公共」か否かなどという区別は、・・・その社会に対して、人びとがどれほど自ら「責任」をもつかによって決せられるべきだろう。(P098)
●自ら「責任」を負えぬことなど「自由」であるはずがない。自らの「責任」を自覚できることが「自由」なのであり、そこに「正義」はあるのだ。(P144)
●社会の建設とは制度(外形)をつくることではない。・・・政治という手法を介して、その物理的決定を浄化することを経てはじめてその物体(コミュニティ施設)は活きてくるのではないか。社会とは人間がつくるものであり、現世にあってはデモクラシーしかそれに相応し得ないのだ。(P172)