とんま天狗は雲の上

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八ッ場ダムで得したのは地元自治体・住民ではないか

 八ッ場ダムの中止が大きな問題として取り上げられている。選挙前にはこれほどの大きな争点となっていた記憶はないが、前原大臣の積極的な行動がマスコミの注目を喚起したということだろうか。
 「今まで事業費の75%を執行しており、今さらやめるのは損だ!」「継続した場合の経費と中止した場合の経費を比較すれば、中止した方が安く済む!」「これまで50年間も翻弄されようやく建設を容認したのに、今になってまた中止とは精神的に受け入れられない!」など損得論と地元感情論が入り交じって、訳がわからない状態になっている。
 しかし冷静に考えてみると、これまで執行された事業費は地域の道路建設や地権者の移転補償等に使われており、ダム本体は、調査・設計を除いて実質着工されていないという事実を注視すべきだと思われる。今だからこそ中止決定は可能であり、十分検討する必要があると言える。
 これまで地元自治体には、ダム関連ということで多くのお金が落ち、道路整備等がされてきた。よく映像に流れる工事途中の高架道路も、ダム建設が中止されたからといって、爆破し破壊してしまうわけでもなければあのまま放置すると決定したわけでもない。あの道路も含め多くの道路が完成し、移転補償金を受け取って都市部へ移転し便利な生活を享受でき、加えてダム建設が中止となって豊かな自然が守られるのであれば、地元自治体や住民にとって最上の結果ではないか。
 ダム計画もない多くの町村では、道路整備もされず不便な生活を強いられ、山や田畑を買ってくれる人もなく自前で都会へ移転し、残された者は農業に汗を流しつつ観光などのかすかな地域振興対策に奮闘するというのが一般的な過疎地の自治体や住民の姿ではないか。
 それを考えれば、感情的に訴える彼らの姿は、「約束どおりの金をよこせ!」という金銭亡者のように映る。役場へ非難の電話が殺到しているというのも、そういう匂いを嗅いだ多くの国民がいたからではないか。
 これまで確かに多額の事業費を使ってきた。しかしこれはもう元に戻らない。過去は過去として、今検討すべきは、今後どれだけの経費がかかり、それに対する便益はどう見積もられるのか。代替の治水対策の費用との比較や他の公共事業との比較の中で、八ッ場ダム建設の必要性はどれほどに高いのか。こうした冷静な比較検討の上で事業の継続性は評価・判断されるべきである。マスコミが煽るような住民感情やこれまでの事業費の損得論で判断すべき事項ではない。そう思うのだが、世論は表面だけの議論に右往左往しているようである。