とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

行政は誤るものと心得よ

 しばらく前の話だが、「愛知県が管理する県道のアスファルト舗装が剥がれており、そこからこぼれた砂利に乗って転倒し死亡したライダーの遺族が、道路管理者である愛知県を相手取って訴訟を起こした裁判の2審の判決が出され、愛知県が1審と同様に敗訴した」という記事が新聞に掲載されていた。
 愛知県の担当者の見解として、「管理に手落ちはなかったと考えている」旨の発言が掲載されていたが、まあそのとおりだろう。道路の舗装が剥がれていることはよくあるし、もっと言えば昔は舗装道路すら珍しかった。舗装が剥がれていても、それが「必ず、死亡事故を引き起こす」と考えることは無理があるし、「運が悪ければ、死亡事故になりかねない」くらいは思ったかもしれないが、そのための予算や手間を考えれば、すぐに対応しないこともありうることだと思う。
 だから「判決が厳しすぎる」と言いたいわけではない。一方で、道路管理が不十分なことが原因の一つとなって死亡したことも事実であり、判決内容はやむを得ない面がある。
 最近、何らかの損害を被ったときに、被害を受ける原因を引き起こした他者に対して損害賠償を迫る事例は多く、また裁判結果も多くの場合、それを追認する判決となることが多いように思う。またマスコミも感情的にこうした状況を支援する傾向が強い。弱者が救済される、と考えればよいことだ。
 しかし一方で、被害を与えた側を一方的に責める風潮には疑問を感じる。特にそれが行政や大企業の場合には、記者会見などでまるで罪人のように攻め立てる場面がよくテレビで報じられるが、あれがよく理解できない。もちろん当然予見できたことであれば「未必の故意」として刑法犯にもなりうるのだろうが、多くは「運悪く、自分が責任者の時に、そういう役回りになった」ことがほとんどだ。
 今後の対策を問うのであれば意味もあろうが、それも多くの場合、「二度とこういう事態を起こさないための対策」を問うことがほとんどだが、方策はそればかりではないだろう。「まれには事故も発生する」ことを前提にした対応を考えることが必要ではないか。
 冒頭の愛知県の県道事故の場合、「まれに事故が発生したときには損害賠償をすることを前提に、道路修復工事は財政状況に応じて適度に行う」という選択肢があっていい。損害賠償発生リスクと修繕コストを比較検討し、最適コストで修繕を行うという発想だ。
 行政に誤りはないという発想は好い加減止めた方がいい。「行政も誤りがある」ということを前提に、最適な行政運営を求めることが必要だ。そのためには感情に流される過剰なマスコミ報道をまず第一に糺す必要があるのかもしれない。事故の被害者もかわいそうだが、多くの場合、事故の加害者もかわいそうなことが多い。「人間はミスする葦である」とあのパスカルも言っているではないか。あれ、違ったっけ?