とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

女は何を欲望するか?

 「財政危機と社会保障」の第1章・2章をイライラと読んでいて、AmazonからのDMメールに思わず注文してしまった。内田本にエロを期待していたわけじゃないけれど、どこかスキッとしたかったんだろうね。
 ところがどっこい内容はしっかり哲学書。いつものコンピ本を期待していたので実は期待外れ。でも内容はフェミニズムからヘーゲル主義やロラン・バルトのテキスト論、フロイトのトラウマ、ラカンレヴィナスモーリス・ブランショなどが紹介され、フェミニズムはこれら構造主義哲学の性秩序バージョンにすぎないという指摘は、説得力もあり、歯応えもあって、なかなか楽しい。
 内田氏がフェミニストの諸論文をここまで読んでいたとは驚き。私はボーヴォワール上野千鶴子以外、本書で紹介されるフェミニストを誰一人知らないが、フェミニズムを攻撃するというよりは、フェミニズムを通して現代思想を紹介するという本だから、読むのに全く支障なし。
 いや逆に、今はほとんど話題にもならないフェミニズムを対象としたことで、却って本書の売り上げを落としているんじゃないだろうか。
 それにしても本書を読みながら、これって2度読みしてるんじゃないか、という危惧が頭をもたげてきた。どこかで読んだような・・・。特に2部のフェミニズム映画論は・・・。
 と思ったら、「新書版のためのあとがき」によると、「エイリアン」論は「現代思想のパフォーマンス」でも取り上げていたそうで、道理でどこか読んだことがあるような・・・。
 内田樹の硬派な本を読んでみたい、という方には楽しめる本ではないかな。もっともタイトルが内容と対照的にあまりに軟派なため、私のように間違って手に取ってしまう人が多いのではないか。その点では罪作りな本かもしれない。

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)

●社会理論はその本性として、「すべて」を説明しようと欲望する。そしてたしかに「すべて」を説明することができる。だが、「すべて」を説明し終えたときに、その社会理論は死に始める。・・・原理的には「すべて」を説明することができるにもかかわらず、「過剰な成功」を自制し、「もっともよく説明できる」事例にのみ理説の適用を限定するという節度を保つのはまことに困難な要請である。(P11)
●読み手の主体性あるいは「アイデンティティ」は、テクストを読みつつ形成されるのである。/「主体は、世界のうちに属するのではない。それは、世界の境界なのである」というウィトゲンシュタインの言葉は、おそらくこのような事況を語っている。主体とはあらかじめ自存するものではなく、臨界体験がもたらす「境界」感覚の効果に他ならない。・・・/「私は在る」というときの「私」も「在る」も、「私の外部」や「存在の向こう側」は「ここに在る私」によっては絶対的に知られないという「境界線の効果」である。主体というのは、そのようなアモルファスな運動であり、「そのつど形成されつつあるもの」である。(P88)
●「言葉に命を与え」、言葉に命を与えた後「死に」、「消え去った」もの、それをフェルマンとフロイトは「トラウマ」と名づける。何かが言葉に命を与え、その代償として言葉の中で死ぬ。私たちはその「何か」に、生きたままのかたちでは決して触れることができない。それは消え失せることによってはじめて「何かがあった」ことを事後的に回想させる「痕跡」だからだ。おそらくそれこそが言葉の、あるいは「物語」の本来の機能なのだ。/言葉は(通俗的に理解されているように)「そこになかったもの」をそこに現出させる魔法ではない。そうではなくて、「それは消え失せた」ということによってそこにあった何かを欠性的に指示する魔法なのだ。(P132)
●私が何ものであるか、それは「私が語る歴史=物語(histoire)」の中で、語りつつある「私」がいままさに「それになりつつあるもの」である。「私の過去」はそのつどつねに「前未来形」において語られるのである。(P135)
フェミニストたちが女性の宿命について語るとき、その洞察が深遠であればあるほど、その洞察は男性をも含めた人間そのものの宿命にも妥当してしまう。それは考えてみれば不思議なことではない。男も女もともに性秩序という檻の囚人であるという原事実に比べれば、牢獄の形態や機能の差はほとんど論じるに足りないからである。・・・性秩序に限らず、私たちはさまざまな社会制度の虜囚である。(P136)