とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

乳と卵

 2008年芥川賞受賞作である。芥川賞を受賞したからありがたがって読むという習慣は僕は持っていない。だからどうしてこの本を買ってしまったのか、今になってよくわからないでいる。内田樹の「女は何を欲望するか?」を読んだからではない。その前に買った。たぶん「財政危機と社会保障」と一緒に。それともこれから読む「宇宙は何でできているのか」と一緒だったっけ? いずれにせよ、固い内容の本を中和したかったんだと思う。
 思ったとおりの内容である。「女は何を欲望するか?」を読んだので、頭の片隅に「女性独自の文体」という言葉がこびりついていたが、この文体が女性独自というわけでもない。「女性の脳内感情をそのまま吐露したような文体」という評もあるかもしれないが、あまりに型どおりという気がしないでもない。
 それよりも女性は自らの身体をどう考えているかを表現したと言った方が近いような気がする。少なくとも僕の興味(好奇心)はそこにあった。種をつなぐ性としての女性。どれだけの女性がこのことに疑問も感じず受け容れるのか。どれだけの人がこの事実に反発し抗うのか。そして一旦受け容れてしまった後の女性の身体観。これは同時に男性にも言えることで、男性だって自分の身体をどう受け容れていくのかは文学的なテーマになるに違いない。
 しかしその苦悩を描くだけでは当たり前すぎる。そしてこの作品がそこからどれだけ離陸できていたかというと心許ない。
 芥川賞はどういう意図を持つ文学賞なのだろう。斉藤智(水嶋ヒロ)が受賞したポプラ社小説大賞は、ポプラ社にとって小説分野への進出を図る上で、水嶋ヒロの名前を利用したということはないだろうか。芥川賞文藝春秋社の将来有望な(商業的な価値の出る可能性のある)小説家の囲い込みのための賞かもしれない。
 川上未映子という作家がどれだけ文藝春秋社にとって価値があったのか。どうなんだろう。女性には受けるだろうか。僕はこれ以上読もうとは思わなかった。

乳と卵(らん) (文春文庫)

乳と卵(らん) (文春文庫)

●色んなこと、わかって、わかってるつもりではいるのやけれども、しかし考えれば考えるだけの億劫と、重くのしかかるものが大阪、母子、を思うと、その字づらからその音からその方角から心象から、いつもわたしの背後に向かって一切の音のない、のっぺりとした均一の夜のようにやって来ては拭いきれぬしんどさが、肺や目をじっとりと濡らしてゆく思い。(P22)
●あたしは勝手に腹がへったり、勝手に生理になったりするようなこんな体があって、その中に閉じこめられてるって感じる。んで生まれてきたら最後、生きてご飯を食べ続けて、お金をかせいで生きていかなあかんことだけでもしんどいことです。・・・それに、生理がくるってことは受精ができるってことで、それは妊娠ということで、それはこんなふうに、食べたり考えたりする人間がふえるってことで、そのことを思うとなんで、と絶望的な、おおげさな気分になってしまう、ぜったいに子どもなんか生まないとあたしは思う。(P32)
●ほんまのことって、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんど。(P101)
●でも、わたしは知らない男とやってみたいのよ。なぜならばそれが本当はどんなことなのか、わたしにはわからないから。知らないっていうことがどういうものなのかを知ってみたいような気がするから。できることは本当にできることなのかを、自分の体を使って試してみたいような気持ちになって、苦しいから。(P125)