とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

終の住処

 高度成長時代を生きた凡庸なひとりの男の人生である。男が結婚してから娘が独り立ちし妻と二人だけの生活が始まる初老のときまでの人生を綴る。男の人生は、妻との相対のなかにある。すべてのことは彼の知らない中で決められ、それを受け入れて生きていくことだと感じる。不倫し、告白しようとし、妊娠を告げられ、別れ、また別の女たちと不倫し、そしてそんな恋愛に取り憑かれた時代が終わる。
 妻との11年にも及ぶ会話のない生活の果てに、「家を建てよう」と言い、完成して碌に住むこともなくアメリカへ単身赴任し、仕事に浸かる。帰ってみれば妻とのふたりだけの人生が待っている。
 男の人生はそんな「無いなら無いに越したことはないようなものたちによって、かろうじて人生そのものが存続しているのだった。じっさいいまの彼は過去のために生きてきた」。我々の人生もそんなものだ。どんな人生だろうとすべては過去となり、そしてそのほとんどは取るに足らないものだ。だがそれを生きていく。それが人生というもの。最新作「赤の他人の瓜二つ」にも通じる人生への諦観や美意識が見える。オンリーワンだがどこにもある人生。

終の住処

終の住処

●とうとつに、この空間を共有するすべての存在にとって既知のある事実が、彼だけには知らされていないような気がした。この場所は俺にとってあまりに危険だ、ここにいてはならない、いますぐに立ち去らねば! 彼はもと来た道を走って逃げ帰った。走りながら、しかしいまや他のどこへ帰るわけにも行かない、自分の戻る場所は家以外に、妻のもと以外にはないのだということまで含めてが、この朝の異常な出来事のひと続きであるような、不可解で抜け出しがたい思いに彼は囚われるのだった。(P12)
●彼が生きていくということはおそらく、生み出される実存しない記憶をそのまま受け入れることに他ならなかったのだ。(P42)
●おそらく妻は、俺と結婚する以前から結婚後に起こるすべてを知っていた、妻の不機嫌とは、予め仕組まれた復讐なのだ。妻は俺に復讐するために結婚した、しかし復讐せねばならないだけの理由、つまり俺の浮気は、じっさいには結婚した後に起こった。―この論理はあきらかにおかしい。因果関係が、時間の進行方向が反転している。しかし永遠の時間、過去・現在・未来のいずれかの時間のなかで確実に起こることならば、ひとりの女といえどもそれを予め知ることが不可能だなどと誰がいえるだろうか? 「ひとりの、定められた女であればこそ、すべての時間を行き来することができる」(P77)
●まったくとうとつに、彼は気が遠くなるほどの深い幸福感のなかにいた。・・・いまやあらゆる障害が取り除かれ、この現実のなかで起こることならどんなことでも受け容れられるような、そんな気がしてならなかった。恋愛に取り憑かれた、延々と続く暗く長い螺旋階段を登り続けた彼の人生のひとつの時代が、この日ようやく終わったのだ。(P86)
●若いころの営業と接待の日々、上司の罵声、深夜残業、家計のやりくり、赤ん坊の夜泣き、寝不足のまま朝起き上がるときの辛さ、そうしても抜け出すことのできない不倫関係、自己嫌悪、そして妻との、すれ違うばかりの緊張した生活―それらのいっさいが、いまでは堪えようもなく懐かしかった。まったく不思議なことだったが、人生においてはとうてい重要とは思えないようなもの、無いなら無いに越したことはないようなものたちによって、かろうじて人生そのものが存続しているのだった。じっさいいまの彼は過去のために生きてきた、そしてそれで良いと思っていた。(P103)