とんま天狗は雲の上

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「当事者」の時代

 新書にしては468ページという大部な本である。作者の佐々木俊尚氏は、毎日新聞出身だが、インターネットツールやウェブメディア関連の著作が多いジャーナリスト。本書では少しだけウェブメディアに関連して記者取材を説明する部分もあるが、全編を通じて、マスメディア取材と報道の立ち位置をテーマに論を進めていく。
 第1章では、新聞記者としての経験を紹介し、マスメディアは記者会見を表とする<記者会見共同体>と、記者と権力側との個人的なつながりでつくられる<夜回り共同体>の二重の共同体で取材がされていることを説明する。メディア側が権力側に一方的に操られているわけではなく、両者の同床異夢の行動が二重の共同体を作り、双方にメリットがあったのだと言う。
 第2章では、マスメディアが中立公正という建前の中で、「市民目線」や「庶民」といった幻想の存在に依拠して報道をしている実態を説明する。しかしそれは常に「上から目線」に過ぎず、またそうならざるをえない。
 ここで筆者は過去に遡る。戦後20年近く、誰も疑いを持たずにいた日本人は戦争被害者だという視点に対して、小田実が<被害者=加害者>論を提示する。ベトナム戦争に飛び立つ沖縄基地で働く沖縄人は、米軍の被害者にして加害者である。日中戦争において、日本人は軍部の被害者にして加害者であった。津村喬は「われらの内なる差別」を刊行する。豊かで平和な日本で学生運動を展開する意味を問う。在日朝鮮人に対して持つ差別意識を自覚する。
 第3章のタイトル「1970年夏のパラダイムシフト」とは、1970年7月7日の日比谷公園野外音楽堂で開かれた大規模集会での「七・七告発」を指す。私はそんな事件があったことさえ知らなかったが、学生運動に決定的な自己総括を迫った事件だった。
 ところが、その後の日本は<被害者=加害者>論を過剰に受け入れ、踏み越えてしまった。それが<マイノリティ憑依>である。次に筆者が紹介するのが、太田竜本多勝一である。「世界革命浪人」を自称する太田は、「辺境最深部に向って退却せよ!」で、世界革命をめざす者は徹底的な底辺労働者の立場から革命を語れ、実行せよとアジる。そしてそれに輪をかけたのが本多勝一である。
 「戦場の村」で、「当事者としてできることをしろ」という解放戦線幹部の言葉を伝えた本多は、その後の人類学批判や「中国の旅」などでは、「私は殺される側に立つ」という<マイノリティ憑依>そのものに転落する。第4章のタイトルは「異邦人に憑依する」だ。
 本書では、その後、総中流社会が「マイノリティ憑依」を支えていたことを、日本の神道やアメリカのユダヤ人による黒人への<マイノリティ憑依>を挙げて説明する。
 終章「当事者の時代に」はこうして延々と書き続け、論考してきた末の結論として、メディア論としての「当事者の立場」からの取材・報道を訴え、二つの事例を紹介する。一つは、新宿西口バス放火事件で写真スクープをしつつ、偶然そのバスに妹が乗車していたことから、当事者の立場に立たされた報道写真家の石井義治。そしてもう一つは、東日本大震災被災した東北の新聞記者たちの取材と報道だ。
 東日本大震災後の取材が筆者に本書を書かせたのかと思ったが、必ずしもそうではなく、その前から問題として考えていたようだ。しかし、東日本大震災被災者自らがブログやツィッターなどで情報発信したという点でも、「当事者の立場」からの報道を促す要因になっている。
 奇しくも次第に大きくなる官邸前デモの状況をマスメディアが一切報道してこなかったことが話題になり、問題視されている。大飯原発前のデモはUSTREAMでも生中継されていた。マスメディアの存在性が大きく問われている。筆者の問題としたメディアの当事者性がさらに問われる時代となってきた。

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

●「公」の場所では、記者と権力は記者会見場という広場に集まり、対立構造を表出する。広場型で、言葉中心のローコンテキストな共同体という仕立てになっている。/しかし「私」の場所では、記者と権力は個人と個人がつながり、そこには可視化された記者会見場のような広場は存在しない。フィード型で、暗黙の了解と禅問答がないまぜとなったハイコンテキストな隠れた共同体をつくっている。(P117)
●つねに市民は、権力に蹂躙され、か弱い被害者。そういう型から逸脱した原稿は、新聞のコンテキストには適合できないということなのだ。/要するにマスメディアの正義の依拠する場所は、うるさいマイノリティである市民運動家ではなく、黙して語らないマジョリティの庶民たちなのである。(P187)
●実のところ、小田実の<被害者=加害者>論には、無意識的な欠落があった。日本人は戦争被害者であり、同時にアジアや在日への戦争加害者だった。しかし小田は言わなかったけれども、日本人は同時に侵略者である兵士たちを鎮魂しなければならない彼らの同胞でもあったのだ。/被害者。/加害者。/侵略者の鎮魂者。/この三つの立ち位置を、みずからのなかで消化して吸収し、そして微妙なバランスで立ち位置を定めていく。そんなことが本当に可能なのだろうか?(P359)
●メディアで語られる「少数派」「弱者」は本物の少数派や弱者ではなく、<マイノリティ憑依>されて乗っ取られた幻想の「少数派」「弱者」にすぎないからだ。この乗っ取りから、リアルの存在である少数派や弱者を救い出さなければならないのだ。(P428)
●メディアの空間に足を踏み入れる者が、インサイダーの共同体にからめとられのではなく、そして幻想の弱者に憑依するのでもなく、つねに自分の立ち位置を確認しつづけること。完全な<加害者>でもなく、完全な<被害者>でもなく、その間の宙ぶらりんのグレーな状態を保ちつづけること。(P429)