とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

がんばれる人に報いるよりも、がんばれない人に報いる方が先では?

 いよいよ選挙が近づき、駅前や街頭が騒がしくなってきた。TVでも自民党民主党、極右第三極、リベラル三極と入り乱れ、好き勝手なことをわめいている。「政策比較をして選択を」と識者が訴えても、同じニュースショーの中で政局ばかりを取り上げれば、本気で政策選挙を促しているとは思えない。
 いつもながら政治家は耳に心地良いフレーズを繰り返す。「安全・安心」「元気・活力」「日本経済の再生」「環境配慮」「生活向上」。だが具体的にどういう政策を講じればそれが達成されるのか。安倍総裁のインフレ・ターゲット、日銀法改正による金融緩和はさっそく当の日銀はもちろん、経済評論家や財界からも疑問の声が上がっている。
 「安全・安心」と言ったって、「安全」が達成されてこその「安心」。だが「安全」を達成するためには費用がいるし、それをどうひねり出すか。そこに誰も信頼感ある妙案を述べてはくれない。
 信頼感と書いたが、「安心」はあくまで心理・感覚の言葉で、「安全」でもないのに「安心」を唱えるのは詐欺に等しい。一方で完全な「安全」を達成することは困難で、どこまで「安全」なら「安心」と感じるかは人によって、場合によって、時代によって変化する。今はどこまで安全を追及しても安心できない「不安な時代」になっている。
 感覚と言えば、最近気になるのが「スピード感」という言葉。あくまでスピード「感」であって、スピードを持って事に当たるわけではない。スピードを持って対応しているかのように「見せる」ことが求められている。でもどんな時に? 災害復旧はスピード感を持って対応するのではなく、実際に対応スピードを上げることが求められる。「スピード感」だけが求められる政策っていったい何だろう?
 先日、ボゥとTVを見ていて思ったこと。
 「がんばった人が報われる社会を作ります」 ん? 確かにがんばった人が報われるのはいいことだが、誰が私のがんばりを評価してくれるのか? 結局、運のいい人が得をして、投じる資産のある人が利益を重ねるだけではないのか? 今は「がんばりたくてもがんばれない」人々が大勢いるし、「がんばっても成果が出ず、評価されない」人が大勢いる時代だ。
 それなら、がんばった人に報いるよりも、がんばれない人に報いた方が先ではないか。がんばれなかった人がその人なりにがんばろうとやる気を起こし、それが報われる社会。その方が、がんばる人が報われる社会よりも先に整備しておきたい社会だ。がんばった人に報いても、その人が個人的に、または巡り巡って、がんばれなかった人に報いが届くかどうかは全くわからない。ならばやはり「がんばれない人に報いる社会」づくりが先ではないかなと思う。
 最後にもう一つ。昨今、多くの政治家が国益を語るが、誰ひとり世界益を語る政治家がいない。他国を押しのけて国益を確保するよりも、他国と一緒になってお互いの国益向上、世界益向上を実現するべきではないか。そうでなければ長期的な国益の維持は果たせない。
 某党首のように老い先のない身なら今日明日の国益が得られれば満足かもしれないが、私のような50代の人間にとっても、せめてあと30年間は国益が維持され向上させることを願っている。こうした長期的かつ世界的な視点で政治を語れる政治家はいないものか。今の日本には世界的な政治家は誰ひとりいないようだ。寂しいことだし、日本の国益にとっても不幸なことだと考える。