とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

この国はどこで間違えたのか

 沖縄タイムスの連載された「国策を問う」シリーズを収録したもの。記者である渡辺豪が8名の知識人に沖縄と福島の問題から日本の社会と政治を問う。8名の知識人とは、内田樹小熊英二開沼博佐藤栄佐久佐野眞一、清水修二、広井良典辺見庸の8人だ。このうち、清水修二だけは知らなかった。福島大教授だ。専攻は地方財政学。
 本書を読むきっかけはいつものように内田樹だ。そして内田樹の切れ味はいつものように鋭く、視野はやはり広い。他の7人もそれぞれ興味深い論を述べているが、それぞれ専門分野の中から沖縄と福島の状況を述べている感じがする。
 7人の中でもっとも納得し、かつ目を開かれたのは若干29歳の開沼博の話だ。中央に規制せざるを得ない地方の現実を、地方の不甲斐なさや無見識を言い募るのではなく、そうせざるを得ない社会構造の問題だと指摘する。米軍基地を受け入れる人も拒否する人も、原発を誘致する人も反対する人も、みな故郷の発展と活性化を願っている。そのことを理解し、同じ視点で彼らと立ち並ぶ時、そういう状況に陥れる日本の社会構造がある。地方はかつてないほどどうしようもなく厳しい状況に追い込まれているのだ。そうした状況にもかかわらず、いやそうした状況だからこそ、地方公務員給与削減などのバッシングが起きる。あれはまさに弱い者を寄ってたかっていじめる弱い者いじめなのだ。
 もう一人、強烈な怒りとペシミズムで日本の状況を見据える論者がいる。辺見庸だ。トモダチ作戦の欺瞞を指摘し、マスメディアを批判する論考は悲壮感を持って迫ってくる。福島と沖縄は同じではないと彼は言う。同じようだけど違う。沖縄は、琉球は、押し付けられ、殺され、踏みにじられてきた。占領され、捨て石にされ、犠牲にされ続けている。琉球王朝の時代から沖縄を見る時、その意味は自ずから明らかになる。沖縄は日本にとって何なのか。だが同時に福島からも声が上がる。「福島は日本にとって何ですか。日本なんですか」と。
 沖縄と福島の問題はそのまま地方と中央の問題でもある。そう見る時、沖縄は、福島は、それらの地方に住まない人間にとってもグッと近いものになる。辺見庸が言う。「この国が命を捨ててまで守らなければならないような内実と理想を持った共同体かどうか、国という幻想や擬制が一人ひとりの人間存在や命と引き合うものかをまず考えたほうがいい」。今、日本は僕らの命を食って生きる怪物になろうとしているのかもしれない。

この国はどこで間違えたのか ~沖縄と福島から見えた日本~

この国はどこで間違えたのか ~沖縄と福島から見えた日本~

●主権国家としての敗戦の総括は、「もう2度と戦争はしません」じゃなくて、「もう2度と負けない」ためにするものなんです。当たり前なんです。「もう2度と戦争しません」というのはなぜ負けるような戦争をしたのかということについて思考停止することですから。そういう国は「負けるような戦争」をまたずるずると始めかねない。「絶対負けない」ためには論理的には「2度と戦争をしない」という選択肢しかない。(P45)
福祉予算がここまで膨れ上がった最大の理由は、誰も言わないけれど、中間共同体の崩壊のせいだと思います。/でも、考えれば分かるけれど、行政組織が個人を救うというのはめちゃめちゃ効率が悪いんです。・・・行政を経由するより、個人から個人への所得移転の方がはるかに効率的だし、きわめて細かい支援ができる。・・・それができないのは、結局は市民の公民意識が未成熟だからなんですよ。(P63)
小泉改革あるいはその前の90年代後半からの地方分権一括法とか改正地方自治法とかが効いて、2000年代に入ってより地方が厳しくなっているという変化があります。その中で地域活性化を目指すときに、「地方活性化=人が嫌がるものに手を出す」という等式が成立してしまっている状況すらあるように思います。(P114)
脱原発を唱えれば、「CO2対策をどうするのか」だとか「代替エネルギーはどうするのか」という声が上がるのですが、「福島県は」原発とオサラバすると言っているのであって、これだけの災害を受けた以上はそれだけのことを言う権利はあるし、逆にそれ以上のことを言う義務はない、と私は思うんです。日本のエネルギー政策をどうするのかということに福島県民が答えを出す義務はない、と。(P210)
●3.11というのは未曽有の災害であるとともに、米側や日本の軍備強化路線を唱える勢力にとっては「天佑」でした。これこそ路線転換のチャンスだと思っている人間がいるのです。震災ビジネスで儲けようとするだけじゃない。政治家の中にもそういうふうに発想した者が結構いると思うんです。(P256)