とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

友だちリクエストの返事が来ない午後

 コラムニスト小田嶋隆が「友だち」というテーマで連載したコラム集。友だちとは子ども時代の記憶であり、大人同士の関係ではない。畢竟、大人になるにつれて友だちはいなくなる。気がつけば、友だちなんて、嫁さんぐらいしかいなくなる。まさにそのとおりかもしれない。

 これまで何度も書いてきたように、筆者と私はほぼ同年代である。生まれ育ちが地方と東京の下町という違いはあるが、時代の気分や社会環境にそれほど大きな違いはない。だから筆者の言うことは本当によくわかる。

 小・中学校時代の友だちとはもうすっかり会うこともない。高校時代の友だちの多くも年賀状のやりとりをする程度。学生時代の友だちはと言えば、そもそもその人数がそれ以前に比べてかなり少ない。たぶん友だちを必要としない年齢になったのだろう。そして社会人になってからの友だちは・・・同僚とは言うものの、本当に友だちなんだろうか。

 でも友だちがいないことを気にすることはない。そのことをさまざまな角度から眺め、試し、考える。そして納得する。大人になれば友だちなんていないのが当たり前。ただし嫁さんを除いて。もう嫁さんには頭が上がらない。唯一の友だちだから。

友だちリクエストの返事が来ない午後

友だちリクエストの返事が来ない午後

 
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  • 男が50歳を過ぎると、友だちなんて、嫁さんぐらいしか見当たらないよ、と、そういうことだ。・・・「確かに、マトモに話ができる相手って、嫁さんぐらいしかいないかもな」・・・淋しい話だ。若い人たちには、ぞっとする話に聞こえるかもしれない。でも、これは事実なのだ。/嫁さんの側がどう思ってるのかは知らない。が、とにかく、おっさんには友だちがいない。(P49)
  • 友だちは、少なくとも、大人の人間同士の関係ではない。なぜなら、友情の前提となる信義と献身は、然るべき合理性を欠いているからだ。それどころか、友情は、それを脅かすものに対して命がけの牙をむくという一点において、反社会的ですらある。/そんなわけで、古来、ヤクザ映画は、ほぼそのまま友情の物語だった。(P58)
  • われわれは孤独の複数形を友情と呼び、欲望の複数形を恋愛と呼んでいる。(P150)
  • 日本中の田舎が、たった20年かそこらのうちに、判で押したような凡庸なロードサイドに変貌してしまったことの影響も、それはそれで小さくないと私は考えている。それは青年が故郷を捨てることとは別の意味での「故郷の喪失」を刻印している。/かくして、「地元」は、いよいよ巨大な意味を持つことになる。地元の子どもたちは、地元の青年となり、いつまでも子ども時代の付き合いをやめない。・・・ラインやフェイスブックで四六時中つながっている彼らの物語は永遠に続き、その物語の中で「地元」と「仲間」は、むしろ逃れられない桎梏として意識されるものになる。(P133)
  • 記憶は、個人の頭の中に封じ込められているデータなのではない。それはむしろ、特定の土地に、埋蔵文化財のような形で収蔵されている。/友だちも同じだ。/友だちは、それぞれの時代の、それぞれの土地に、地縛霊とよく似たなりゆきで固着している。(P244)
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