とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

小田嶋隆のコラムの向こう側

 小田嶋隆が亡くなって半年が過ぎた。それまでは日経ビジネス電子版で連載されていた「ア・ピース・オブ・警句」を毎週読んでいた。いや、数年前から有料コンテンツとなって、全てではないが、月10本の有料購読内でできる限り読んでいた。昨春、ツイッターを始めてからは、「ア・ピース・オブ・警句」の更新がないことを心配して、フォローもした。だが、その直後、小田嶋氏の訃報が報じられた。ショックだった。

 小田嶋氏と私は同学年だ。同学年の訃報といえば、新型コロナによる岡江久美子の死がショックだったが、それに続くショックを感じた。小田嶋氏のコラムには、同学年だからこそ「わかる、わかる」と感じることが多かった。本書は、2020年以降(ということはコロナ禍以降)の「ア・ピース・オブ・警句」に掲載されたコラムが収録されている。

 「まえがきに代えて」に

○「紙媒体のコラムのほうが、完成品をお届けするという感覚です。ウェブ媒体(で書くコラム)は…完成度は下がるけど、多様な読み方ができる。コラムの生成過程から書いてあるのがウェブ媒体のコラムです」(P3)

 というインタビュー音源が収録されている。確かに。日経ビジネス電子版掲載時から、「やれ、だらだらと書き連ねられたコラムだな」と感じていたが、そこから何を読み取るか。一直線に一つの主張に向かっていかない、時には脱線したまま終わるその内容は、筆者自身も確信犯だったわけだが、今となっては、そうした伏線的な記述の中に小田嶋氏らしい視点を感じる。

 もう読めないことが残念だ。その弱さも含めて、筆者の心情にシンパシーを感じる。今、そんな読んで楽しいコラムニストといえば、武田砂鉄くらいだろうか。小田嶋氏は結局、安倍元首相の死を知らずに死んでしまった。ウクライナ戦争は未だに続いている。東京五輪を巡る汚職騒動も知らないまま。小田嶋隆ならこれらの事柄に対して何を感じ、どんなコラムを書いていただろうか。惜しい人ほど先に亡くなる。実はその方が幸せだろうか。

 

 

○日本のジェンダー平等をさまたげているのは、日本人の「ユーモア」だ。…手近な人間をいじり倒す笑いが一般化したことの結果として、女性や非正規労働者といった弱い立場の人々の人権を軽視する態度が正当化され続けるという、非常にいやな流れが一般化している。…ジェンダー平等が実現した結果、笑いのない社会がやってくるのだとして、私はそれはそれで結構なことではないかと考えている。(P76)

○この四十年の間に、われら日本人が「コミュニケーション重視」の「親和欲求」と「帰属欲求」がやたらと高い、「みんないっしょ」志向の「前例踏襲」かつ「右顧左眄」の、極めて「集団主義的」な人々に変貌した…結局…現代のこの社会の中で「エリート」と見なされている人間は、誰も彼も「コミュ力」の権化なのだ…「偏差値エリート」…が、いつの間にか「コミュ力エリート」にとって代わられている。(P88)

○「とにかく食事から食事までの間を生き延びること」という…指針は、限界の状況を生きる人間の処世としておおいに参考になる。…この何年か、入退院を繰り返す暮らしの中で、私は…短期的で遠くを見ない処世を身に付けるに至った。…非日常的な苦しい状況に立ち向かっている人間は、その苦闘の中で、虫みたいな具体的/即物的な生き方を選択する。またそうでなければ、目前の災難に対処することはできない。(P180)

○「させていただく」は「ものの考え方」ないしは「行動規範」として、われら二十一世紀の日本国民の脳内をやんわりと支配していくはずだ。…「させていただいている」人間は、誰かに命令され、許可を与えられ、あるいは促されるなり暗示されるなりして、自身の動作に従事している。…つまり「させていただいている」人間は、自分で決断して、本人の意思と責任において動き出すことを断念して、誰かに使役される受動的なロボットとして世界に対峙しているのだ。(P211)

○昔から…映画館にわが身を運ぶことに面倒くささを感じていた。…リアルタイムで流れる映像的なコンテンツに、感情移入することが苦手なのだろう。/文章は、自分のペースで読みすすめることができる。途中で投げ出すこともできるし、前に戻って読み返すこともできる。/しかし、映像作品の場合、制作側の指定した時間の流れに、観客の側が従わなければならない。私は、たぶんこれが苦手なのだと思う。(P240)