とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

フクシマ・ノート

○三年を経ずにして「フクシマ」はすでに忘れられた、というのが現在の僕の印象です。「フクシマ」は今でもたしかに話題にはなります。テレビのニュースや善意に満ちた政治家の演説のなかに影のように現れ、その影響が新聞で取りざたされはします。しかし、ほんとうのところ、僕たちはすでに「フクシマ」を忘れたのです。(P1)

 「日本の読者のみなさまへ」と題された「まえがき」の冒頭は上のような文章で始まっている。本書の刊行は2013年10月だが、さらに約2年が経ち、いよいよ「フクシマ」は忘れてしまった。自分のことを言われたようでドキッとした。3.11から4年半。本書は在日のフランス人、ミカエル・フェリエ氏による東日本大震災とその後の福島原発事故に係る体験と取材を綴ったものである。しかし震災以降、これほど詳細に生々しく、かつ文学的な震災記を読んだだろうか。

 石井光太「遺体」は震災後の遺体処理に係る生々しい実態を描いているが、そこには「遺体」という描くべき対象がある。「想像ラジオ」津波の後、高い木に引っかかった死者の話だが、あくまで小説だ。それに対して本書はまさに筆者自身の体験を綴っている。東京で地震に遭遇し、揺れ動く自宅での描写は、東京でもそれほどの揺れだったのかと初めて知った。そして余震、逃げる外国人、買い占めなどの混乱。「平家物語」やランボーなどを引きながら地震を考察する。

 第2章では、軽トラックに救援物資を載せて、東北各地を回り、取材をしたドキュメントだ。南相馬、松島、気仙沼南三陸町飯館村・・・、行く先々で被災者から話を聞き、救援活動をする男性やボランティアの女性と話をする。悲惨な光景が描写される。津波、遺体、避難生活、放射能・・・。だがそこには救われる話もある。優しく美しい老人の歌。写真や書類を集めては洗う女性。彼らは救いのない被災後の日々にも人間の生き方を示す。前を向いて生きていく。

 そして東京へ戻ってから、再び考察の日々。筆者はそこで「ハーフライフ」という言葉を持ち出す。半減期という意味。だが同時に、震災後の我々の生活が「ハーフライフ(半減の生)」ではないかと問う。正しいことを正しく言えず、異常を正常と言い、そしていつしかそれが日常になっていく。そう「フクシマ」はもうすっかり忘れられてしまったのだ。

 「フクシマ・ノート」というタイトルは、大江健三郎の「ヒロシマノート」をオマージュして付けられた。まさに現在の「フクシマ・ノート」。しかしフクシマヒロシマのようになる日はきっと訪れない。半減期は数万年も先にならないとやってこない。それまで我々はずっとハーフライフを続けるのだろうか。「フクシマ」は我々の人生から半分を奪ってしまった。正しさと希望と知性が損なわれた。それは先日の安保法制定につながっているような気がする。我々はあの日以来、ハーフライフを生きているのだ。 

 

フクシマ・ノート: 忘れない、災禍の物語

フクシマ・ノート: 忘れない、災禍の物語

 

 

○かつては、光が夜を侵食し、貫き、平然と、休みなく貪り続けていた。穿孔性の大食症にあらゆるかたちをした夜が呑みこまれていった。ところがいまや状況は逆転した。・・・歓び、静寂、神秘。片隅が息を吹き返す。影の地理が自らの場所を回復し、光沢と物質、花瓶のまわりに漂う闇、棚板の下にうずくまる秘密のほうへと視線を誘う。体制順応主義でなかった谷崎潤一郎であれば、東京の街の真んなかへ挑発するかのように陰が戻ってくるのを喜んだだろう。(P97)

○海水に洗われすぎた皮膚がむっとするような臭いを放つなかで、だらりと締まりのなくなった身体、水で膨れた胸、大きく盛りあがった腹を見る作業が、耐えがたいほどに続く。とりわけ、溺死者の顔面、目が白く、頬が袋のように垂れた、腫れあがった顔。/ケンジは僕にもう一度タバコの礼をいうと、仕事へ戻るべく歩きだしたが、ふと踵を返して戻り、話を続けはじめた。・・・犠牲者の家族はみな知っていることだが、長く水のなかに浸かっていた溺死者の顔を流水で洗ってはいけない。(P153)

○突然、老人が歌いだす。洗濯をしている女性たちが歌うテンポの速い瑞みずしい歌を、今度は老人が口ずさむ。・・・老人が口ずさむ歌はとても優しく、美しく流れて、朝の静寂のなかに祈りのように広がっていく。/老人は感受性と力に満ちみちている。・・・老人の絹のようにしなやかな力が恩寵のように僕たちを包む。老人は地震の埃と津波の泥のすべてを、僕たちから遠去けてくれる。(P177)

○地理が失われ、時間が大きく乱れ、多くの命が奪われたなかにあって、各人が自分のやり方で、忍耐強く、あたりの風景から少しずれた構文を、自分の構文を書き込んでいく。そして、この自分自身の構文を書きこむ行為こそが、僕たちの一人ひとりにとって決定的に重要な意味を持つのだ。彼らの動作の一つひとつに、生命が、神秘的に、そして感動的に立ち現れてくる。・・・草があり、草が伸びる。夢があった、そして夢の跡があるだろう。死はすべての終止符ではない。(P208)

○完全に異常である状況を、正常であると言う。普通でない事象に少しずつ慣れる。生命が危険に曝される状態を合法化し、正常化する。許容しがたいことに折りあいを付ける。・・・周辺住民は沈黙と諦めに追いこまれる。・・・処理が不可能な廃棄物が、恥知らずにも、将来の世代へ継承される。この猛威が、このうえない平静のうちに拡散していく。・・・いわば平穏のうちに、習俗、慣習、そして判例のなかにまで溶けこんでいく。/これを僕は「ハーフライフ(半減の生)」と呼ぶ。(P278)