とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

くらやみに、馬といる☆

 この本が出て比較的すぐに購入した。ちなみにアマゾンでは売っていない。いくつかのネット書店では販売されているようだが、私は発行元のカディブックスで購入した。作者の河田さん自身が立ち上げた小さな出版社だ。

 昨年読んだ「はしっこで、馬といる」は河田さんとカディ(馬)との交流を描いた本だった。その深さにも驚いたが、本書では「くらやみ」で馬と「いる」。夜の見えない世界でお互いを感じ合う、というシチュエーションはまさに「いる」という言葉がふさわしい。

 短い本で、あっという間に読み終えてしまいそうだったので、ここまで読まずに取っておいた。図書館が閉鎖され、貸出が止まってしまってようやく今、この本を手に取った。そして「ああ、これは馬の本ではない」と思った。「くらやみ」の本だ。河田さんの「くらやみ」。でもそれはけっしてダークサイドではなく、昼の世界、光の世界とは別に「ある」。実存する世界、だ。

○この世界にはヒトとちがう認知のありかたをもつ生き物がいくらでもいる。ヒトの領域の外に出れば、いくらでも別の世界がある。(P105)

 まさにそのとおりだ。それは同時に、現に存在しているのだ。

 馬と心を通わせ、馬とともに生きる中で、河田さんはそんな世界の真実に触れたのかもしれない。本書の後半には、「生と死の淵」に思いを馳せる場面がある。別に死へ誘うわけではないが、今、我々が生きている世界、認識している世界だけが世界ではないということは知っておいていい。生でも死でもない、もう一つの世界。それはいつもそこにある。そう考えれば、そして感じることができれば、救われる命がある。安らぐ心がある。

kadibooks.stores.jp

○光が無くなり、見ていたものが見えなくなった。自分の体も見えなくなった。…こわい気持ちはなく、むしろ、くらやみのなかって心地いいんだな、と思った。私の心身は光あふれる世界より、くらやみになじむと知った。…これまでも機会があればいつでも馬を見てきたけれど、それは昼間の、ヒトの世界から見た馬だった。…日暮れて私が家に帰り、朝起きて馬のところへ行くまでの間、…ヒトがいない世界で、馬は馬として生きている。(P10)

○馬たちがくつろいでいるのは、ここに彼らをおびやかすものがいないからだ。…それはつまり、すぐそばにいる私についても馬たちはそう認識しているということになる。…自分が、ヒトという種ではなく、輪郭のあいまいな生きものとしてこの空間にいることを許されている気がした。私はくらやみのなかで粒子となって拡散し、馬たちの世界に混じりこんだような心持になっていた。(P13)

○馬といるくらやみは、私にとって長い旅路のうえに辿り着いた贈り物のような場所だ。…不思議なのは初めて出会う感覚なのに、どういうわけか「帰ってきた」という懐かしい気持ちもあることだ。…「何にも属さないでいられる」という状態が懐かしさにつながっているのかもしれない。/ここは懐かしい場所だけれど、私が自分ひとりで辿り着くことはなかった。馬という他者の存在があって初めて来ることができた。(P54)

○私という輪郭は、いつも形を変えている。…相手が私を認知すると同時に私の輪郭は変わる。私が相手を認知すると同時に相手の輪郭は変わる。…とりわけくらやみにいるときは、たがいの輪郭が溶けあうような感じがある。…動き続ける自然に囲まれながら馬といると、それらすべてがひとつながりになってこの世界があると感じられる。その一部を区切って「所有する」とは、なんと奇妙な発想だろう。(P77)

○光は世界を分ける。くらやみにいるとその感覚の外に出る。…くらやみはいつでもここにある。わたしは馬とここにいる。…境界線はない。正しさも誤ちもない。善も悪もない。幸せも不幸せもない。…あらゆる存在が溶け合いながらそこにある。…とても静かだ。…カディがひとつあくびした。(P105)