小川洋子の最新短編集。劇場や舞台をテーマにした小品が8編。最初、テーマがわからなかった。作品のタイトルの意味もわからなかった。最初の作品は「指紋のついた羽」。町野文化会館で上演されたバレエ「ラ・シルフィード」を観に行った後、妖精「ラ・シルフィード」に手紙を書き、父を待つ工場の隅で工具などを使って舞台を再現する少女。妖精の羽についた指紋は、少女が工具につけた指紋につながる。
『ガラスの動物園』の主人公ローラは好意を抱いたジムに別れ際「角の折れたガラスのユニコーンを握らせる」(P47)。「鍾乳洞の恋」は、中年女性の室長の入れ歯の奥に潜む鍾乳洞から生まれる白い生きものが盲目の鍼灸師との仄かな恋を導いていく。劇場に住む女性は、「ダブルフォルト」を予言し、俳優たちの失敗を予言して、身代わりとなる。「花柄さん」は、上演後の俳優を出待ちして、サインを書いてもらったプログラムをベッド下に集めていた。コンパニオンのプロを自称する女性は、富豪が作った自宅内の劇場で「装飾用の役者」を演じる。「いけにえを運ぶ犬」はストラヴィンスキーの『春の祭典』と共に、年少時の『馬車の本屋』にまつわる秘密を思い出す。そしてひなびた温泉地の保養所の夫婦が販売する「無限ヤモリ」。
それぞれがどこか妖しく、何気に優しく、そして美しい。まさに「小川ワールド」。でも、どれも長編には育たなかった哀愁も感じる。また小川洋子の長編を読んでみたい。本書に収められた短編を読みながら、そんなことを考えていた。「掌に眠る舞台」。眠りを覚ますのはどの女性か、少年か。そしてそれはどんな舞台だろうか。
○少女の手は休むということがない。ラジオペンチは絶えず形を変化させ続け、バネとビスとゴムは重なり合ったり散らばったりひっくり返ったりし、それらに合わせるように、六角棒スパナはさまざまな隊列を作ってゆく。…ラ・シルフィードなのだ、とようやく縫い子さんは気づく。工具箱の上で、打ち捨てられた工具たちにより、少女の手によって上演されているのは、妖精と青年の悲しい恋の物語、ラ・シルフィードなのだ、と。(P28)
○二人の間には、二人にしか潜り抜けられない秘密のブリッジが架かっている。そこを通ってようやく院長は鍾乳洞にたどり着く。彼は身を乗り出し…水をすくい上げる。…まるで暗闇をすくい上げたかのようなのに、確かにその中に白い生きものが包まれている。…「私があなたに差し上げられるものは、これだけです」/院長の目を見て、室長はそう言う。/「これしかないのです」/院長はうなずいて、白い生きものを指先でなぞり、彼らが描き出す形を読み取る。(P108)
○つまり舞台では未来が既に決定されているのだ、と気づいて私は少し怖くなりました。決して変更されてはならない結末に向かって、手順のとおりにことが運ぶ場所。興行主、支配人、脚本家、演出家、それらすべてであるN老人によって、脚本も読ませてもらえないうちに、自分の未来を勝手に決められてしまったような、奇妙な気分でした。(P186)
○死んだ犬の瞳にはまだ、『渡り鳥の秘密』を抱え、シャツの裾を握った僕の姿が消えずに映っている。僕はいけにえのように、そこに閉じ込められている。大勢の子どもたちの中からたった一人選ばれ、自分だけの居場所を与えられ、どこにも逃げられずにいる。氷像になったロバのミイラや、耳の窪みに巣を作る渡り鳥や、胎児の弟と同じように、特別に選ばれている。(P232)