とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

白鶴亮翅☆

 昨年、「地球にちりばめられて」からの3部作が「太陽諸島」で完結した。その後、しばらく時間を置くかと思ったら、「パウル・ツェランと中国の天使」、そして本書と、今年に入っても多和田葉子の作品の出版が続く。もっとも本書は、昨年前半、朝日新聞で連載されていた作品だから、「太陽諸島」と並行して執筆していたのかもしれない。しかも連載は2月から8月14日で終わっている。検索すると、「つまらない」「途中打ち切り」といった言葉が出てくる。わからないではない。小説に高揚感を期待する人は、たしかにそう思うかもしれない。でも、それが多和田葉子の持ち味ではないか。だからこそ面白い、と思った。

 話は淡々と進む。それも、最初、出かける際に隣家のMさんから声をかけられたという話から始まって、主人公は引っ越したばかりということが明らかになると、そのままなぜ引っ越したのかという話になり、元夫との関係が説明される。さらに、Mさんと喫茶店で偶然出会うと、東プロイセンからの移住のことなどが語られ、彼からの申し出を受けて一緒に太極拳教室へ通うことになり、プルーセン人と主張するMさんのパートナーのこと、翻訳中のクライストの「ロカルノの女乞食」のこと、そして太極拳教室で出会った人々との交流と次々と話題は移っていく。思い出したように、元夫との関係が再び語られると、「ロカルノの女乞食」の翻訳が少しずつ進んでいく。

 クライストの作品には句読点がないというが、この小説も、章立てが一切なく、ただ淡々と、あっちに行ったり、こっちに来たり。でもそれは普段の我々の生活そのものではないか。作中に次のような文章がある。

○月曜も日曜も違いのない生活を送っていると一週間など指の間を流れ落ちる水のように去ってしまう。週に一度太極拳の稽古があるのが唯一の救いで、それがなければわたしの生活は句読点のない文章のようにだらだら続いていくばかりだろう。(P218)

 まさにそんな生活をそのまま小説にしたような作品だ。そして、そんな主人公の周りには、同性カップルやさまざまな国の出身者、移民、過去、そして多様に読み解かれる歴史、などにあふれている。まさに多和田ワールド。

 この作品も続きはあるのだろうか。本当に連載が途中で打ち切りになったのだとしたら、そのことで作者は気落ちをしているかもしれない。でも、続きを読みたい、という思いを持った人々もいる。そのことを真摯に伝えたい。ドラマティックなばかりが小説ではない。小説よりも奇なことは現実に任せて、小説はあくまで読者の心の奥に届けばいいのだ。

 

 

○日が暮れて通りが暗くなるとカーテンをしめていない地上階の室内がそっくりそのまま見える。…何か言っている女の子、…若い父親と…年上の妻の姿。わたしとは何の関係もない人たち。でも自分が…あの男性として生まれずにこの自分として生まれたのは単なる偶然かもしれないのだ。性も国籍も偶然与えられたものであるとしたら、このわたしの特色はどんなところにあるのだろう。(P88)

○確かにわたしの親戚にもナチス政権に命がけで反対していたのに、戦後はドイツ人だというだけでナチス扱いされてポーランド人に殴られた人がいる。しかし歴史はもっと長い目でみなければいけません。自分がどこの国の人間かというようなことは忘れて、ちょうど空を飛ぶ一羽の鶴のように、人間界の愚かな争いを空から見て、どうしてあんな愚かな戦いが起こりえるのか、と心底疑問に思わなければいけません。(P204)