とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

スマホ社会と紙の本

 筆者は、日本経済新聞社で特派員や編集委員などを経て、日経BPなどの社長も務めた人物。紙の本へは強いこだわりがあるのだろう。第2章では、本の特性として、アフォーダンスマイルストーン、サードプレイスの3つを挙げ、人生にとってなくてはならないものと称揚する。続く第3章・第4章でも、読書離れが読解力の低下を招いているという指摘や、デジタル認知症などを挙げて、読書離れの問題を指摘する。

 しかし第5章で電子書籍化を取り上げると、次第に気弱な感じになり、第6章の終わりでは、今はちょうど活字メディアとデジタルメディアの交錯期だとして、「デジタルメディアの優れたところを自分のものとして取り入れることが可能な絶好の機会である。(P187)と書く。うーん、まあそうだろうけど、モノとしての本とそのデジタルデータ化とは別に相容れないことではないし、そう悲観的になる必要もないのではないか。

 もっとも、読書が人間にとって不可欠なものかというと、実は、私自身はそれほどでもないのではないかと思っている。最近は週1冊程度と、私自身はそれほど多くの本を読んでいるわけではないが、まあそれでも活字中毒の気味があるとは思っている。だが、妻や娘はほとんど本を読まない。だが、それで人間的に問題があるかとは言えば、そうでもない。友人などを見ていても、必ずしも読書家=できる人というわけではない。

 読書が好きな人もいれば、本よりもスマホやテレビなどの方がいいという人もいる。読書といっても、小説ばかり読んでいる人もいれば、実用書しか読まない人もいる。読書なら何でもいい、というわけではない。人は誰も自分の行動や思いを認めてほしいと思うもの。本書もその類のような気もする。でもやはり私はこれからも本を読み続けていくだろう。それとサッカー観戦も。やはりその方が楽しいから。なぜ(一部の)人は読書をするのか。それが楽しいから。結局、そういうことじゃないだろうか。

 

 

芥川賞作家の小野正嗣は…こう記した。…そもそも人々は、孤独に耐える力、個を自立させる力を書きことばに求めたのではなかったのか。……書くことは思考であり、その思考を深めること、継続することで、生きのびる力を得ることができる。……書きことばによる自己との対話こそがたいせつだ。……書きことばとは突き詰めると、自己との対話であり、思考である。(はじめにⅳ)

○本に対して抱く強い思い入れを、「フェティシズム」…として片付けてしまう見方もある。/だが…本が持つアフォーダンスの作用によって本と人が…互いに強く結びつくのではないか、本への…一方的な「片思い」ではなく本側のアフォーダンスも相互に作用し合う、言ってみれば「相思相愛」ともいえる関係にあるのではないか(P27)

○書店…へ行けばプッシュ型の情報が見て取れる。/ジュンク堂書店福島聡は…こう指摘する。/書店というメディアには、様々な言説が立ち並ぶ。言説を濾過したり序列化したりする機能は、本来無い。…ミリオンセラーも数百部刊行の本も同じように並ぶことができ、相対立する意見を主張し合うような本たちがぶつかり合い、より豊かな結果を生み出すような<闘技場>であることが<書店>というメディアの特性なのだ。(P105)

○ネットやウェブのデジタル環境のもと、個人は情報やモノ・サービスにふんだんに取り囲まれており、そのなかから必要なものを選び取り、利用できるようになったのは確かだ。/だが、筋斗雲にまたがり自在に空を駆け巡ったはずの孫悟空が、踏ん張ったところで所詮お釈迦様の手の平から抜け出せなかったのと同じような境遇に、デジタル時代の私たちは置かれているのではないか、という気がする。(P160)

○ネット上に情報が洪水のように溢れかえるなかで、まず本はエディターシップによって磨かれ、アフォーダンスにより固定された確固とした情報が読み手に提供される。時には標準化や画一化の大波や情報津波から読者の身を守る「避難港」としての務めも果たす。/本は、読者にとって、各自の人生のかけがえのない里程標ともなり得る。そのマイルストーンを踏まえて、読者は来し方を振り返り、はるか先を見渡すことができる。(P173)

○私たちはいま、後ろに退きつつある活字メディアとそれに交錯するように前進しつつあるデジタルメディアの双方の恩恵に浴すことができる恵まれた環境にある。…この峠では、活字メディアのよいところをとことん自分のものとして、次に残すべきものをしっかり見極め、と同時にデジタルメディアの優れたところを自分のものとして取り入れることが可能な絶好の機会である。(P187)