とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

サッカーが勝ち取った自由

 ネルソン・マンデラが幽閉された刑務所内で、サッカーリーグが創設され、囚人たちがサッカーを楽しんでいたという話は聞いていた。これもまたマンデラの卓抜な指導力を賛美する話の一つかと思っていたが、全然違った。マンデラはサッカーにはほとんど関心がなく、サッカーリーグはマンデラが収容された隔離棟とは別の政治囚が収容された棟において発足した。物語は、優秀で一見おとなしい高校教師セディック・アイザックス、有能で若いサッカー好きな学生のトニー・スーズ、ラブビーに熱中する民族運動活動家のリゾ・シトト、勤勉で知的な教師志望のマーカス・ソロモンらによるサッカーをする許可を要求する要望活動から始められる。
 刑務所側の執拗で残虐な報復にも関わらず、少しでも健康状態のよい者を選定し要求を行うなどの戦略的な活動は、国際赤十字による刑務所視察が契機となり、アパルトヘイト政策に敢然と立ち向かった女性政治家ヘレン・スズマン議員の活動もあって、要望を出し始めて3年目の1967年12月、ようやくサッカーをやることが許可された。
 彼らはサッカーを始めるにあたって、サッカー場を自ら整備するとともに、FIFA会則に従ったサッカー協会を設立し、クラブ規約を定め、さまざまな委員会を設置し、審判を育成した。
 もっともロベン島のサッカーリーグは協会の設立とともに順調にリーグが開催されたわけではない。刑務所側も南アフリカを巡る国際状況や政治状況に応じ、受刑者たちに対する態度が大きく変動する。また、受刑者の側にも変化が起きる。アトランティック・レイダーズ事件は、一部のサッカーエリートがジャイアントキリングによる敗戦に不満を持ち、過激な抗議行動を起こした事件だ。裁定委員会が組織され、時間をかけて粘り強く解決の道が探られた。
 1972年にはサッカーに続きラグビー協会が設立され、さらに刑務所オリンピックが開催されるようになる。ところが次第にサッカーリーグが行き詰まりを見せ始める。それは組織の問題ではなく、政治囚たちが次第に刑を終え釈放されていくことによって起こった。残った選手たちも高齢化し、満足なゲームを行うことが次第に難しくなってくる。この事態に囚人たちはチーム数を減らすなどにより対応しようとする。
 ところが今度は外から新しい変化がやってきた。1976年のソウェト蜂起である。これにより逮捕された若者たちが大量にロベン刑務所に送り込まれ、再びかつてのような立錐の余地もない環境になる。囚人数の増加以上に、若い世代の流入により、ロベン島サッカーリーグは新たな課題を抱えることになる。世代交代である。サッカーをする権利を獲得することの苦労を知らない世代の大量流入。しかしロベン島サッカー協会はこの課題をも乗り越えていく。
 こうして、ロベン島サッカー協会は幾多の変遷を通じ、受刑者たちの組織的な活動のためのノウハウが高められ、彼らの多くは釈放後、さまざまな経過を経て、ある者は大学教授に、ある者は大臣に、そしてある者はW杯南アフリカ大会の誘致に大きな役割を果たす。現在のゾマ大統領もそうした人たちの中の一人だ。ロベン島のサッカーリーグは、サッカーというスポーツを通じ、南アフリカ発展の重要な温床となったのだ。

サッカーが勝ち取った自由―アパルトヘイトと闘った刑務所の男たち

サッカーが勝ち取った自由―アパルトヘイトと闘った刑務所の男たち

●ロベン島に送られる前、ネルソン・マンデラはサッカーにはほとんど関心がなかったが、やがて収容されている男たちにとってサッカーの試合がどんな意味を持っているかを理解して興味を持ち、人々を一つにまとめるスポーツの重要性を学んだという。・・・マンデラは、人々が世界とつながっていくうえでスポーツがいかに重要であるかに気づいた―そして政治においても、正邪の意識を持つうえでも、スポーツは重要であると知った。(P13)
●1964年12月下旬から、受刑者はかわるがわる毎週同じ要望を出すようになった。「サッカーをする許可を要求します」。・・・それからの数ヵ月、受刑者がサッカーをする権利を要求するたび、刑務所側の報復は続いた。毎週懲罰を受け続けたにもかかわらず、受刑者たちの不屈の闘志と団結力はいっこうに衰えなかった。各収容棟の男たちは、つぎの土曜日に要求を提出する人を選ぶにあたって相談し、二日間食事を没収される報復に耐えられるかどうかを十分考慮して人選した。(P67)
●マツェニサッカー協会の目的は、できるだけ多くの政治囚を選手としてだけでなく、審判や線審、クラブの事務局や職員、救急班、コーチ、トレーナーやグラウンド整備といった活動に参加させることにあった。・・・すべての人のためのスポーツ、それがマツェニサッカー協会のめざすところだった。(P83)
●しっかりした規約をつくった背景には、ロベン島ならではの事情があった。正式な司法手続きを経て収監された受刑者はほとんどいなかったので、せめてサッカーにおいては控訴できる権利を十分に確保したいと受刑者たちは願った。スポーツではあるが、自分たちがつくるシステムは公正と公平を重んじ、正義と民主主義の二つの理想に基づいているものでなくてはならない。つまり、アパルトヘイトと真逆にある組織にしたかったのだ。(P92)
●刑務所でサッカー選手やスタッフとして活躍した受刑者たちは、プレイや組織づくりを通して知恵と技術を磨き、自信を身につけ、やがて新生南アフリカをつくり、運営していく重要なプレイヤーとなった。ロベン島では、サッカーは単にひとつのスポーツ競技以上の大きな意味を持っていた。(P275)