とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

わたしたちが孤児だったころ

 解説を書いた古川日出男は「何かが圧倒的に”自分の一部”なのだ。・・・つまりわたしたちも、孤児だった」と書く。実は私はこれを読みながら、「主人公は全く自分と違う、同一化できない」と感じた。多くの小説は、知らず知らず主人公を自分に重ね合わせて小説に書かれた世界を同時体験していく。しかしカズオ・イシグロの書く主人公は誰も自分と同化できない。異質さを感じてしまう。もちろん背景等が違うのはどの小説でも当たり前だ。性格だって違う。それでも普通は主人公に同化し、自分の中にある普段は見えない部分を見つけ出してきて同化しながら読んでいく。ところがカズオ・イシグロの小説は同化することに嫌悪感を感じてしまう。これは理解できない、と。
 多分、その人物像が深いところまで、それこそ本物そっくりに描かれているため、かえって同化できないのではないか。この小説の主人公は10歳で両親から離されて生きてきた。そのトラウマが性格の深くに巣食っている。そしてそれが追い詰められたとき、リアルに現出する。それが何とも違和感を感じるのだ。理解はできる。が同時に嫌悪感を感じる。こんな人間にはなりたくないと私の心が訴える。
 それは孤児の心の奥底に触れるから。孤児でない自分が違和感を訴える。それは実は、孤児の心が直に私に訴えかけているのだ。そういう意味で、これは実にすごい小説なのだと思う。
 孤児の心の孤独。それは一生かけても変わらない心性だ。孤独で偏執的で無理をして生きている。飄々として大人びていても、大人になり切れない。けっして安心しない。常に求めている。心の底から求めている。
 だがそれは同時に私たち自身なのかもと思う。常に求めている。変化し逃げていく世界に、変わらない父母の姿を追い求めている。孤児は現代人である私たち自身の姿なのか。わからない。だが、私たちが見えていると思っている世界は私たちだけの思い込みかもしれない。私たちには見えないところに隠れている真実は、全く別の世界かもしれない。不安と寄る辺なさ。そして永久に追い求める真実。
 戦前・戦中の上海を舞台に、時間と記憶を自由に操り、不安な心を描く。実にカズオ・イシグロらしい傑作だ。

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

●その気持ちとは、どうやらわたしに対して不満を抱いているくせに、それをなんとかうまく隠している人たちが存在するようだという気持ちだ。おかしなことに、このような気持ちになるのはわたしが自分の業績を最も評価してくれていると思っている人々と一緒にいるときが多かった。(P225)
●悪と戦う義務を課せられているわたしたちのような人間は、その……なんと言ったらいいんですかね? ブラインドの羽根板を束ねている撚り糸のような存在なんですよ。わたしたちがしっかり束ねるのに失敗したら、すべてがばらばらになってしまうのです。(P228)
●「クリストファーおじさま、あたし、自分が何もうまくできないことはわかっているわ。でもそれは、あたしがまだ子供だからなの。大人になれば、それもそんなに先のことじゃないわ、そうなれば、あたしがおじさまを助けてあげられる。あたし、おじさまを助けてあげられるわ。そうするってお約束する。(P366)
●「あの、大佐、わたしには子供時代がとても外国の地のようには思えないのですよ。いろんな意味で、わたしはずっとそこで生きつづけてきたのです。今になってようやく、わたしはそこから旅立とうとしているのです」(P467)