とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

海に落とした名前

 先に読んだ「尼僧とキューピッドの弓」で「多和田葉子はほんわかしていていいなあ」と感想を書いたが、本書にはそういう言葉は似合わない。「新潮」に掲載した短中編4編を収録しているが、そのどれもが実験的と言える。
 最初の「時差」は、日本、ドイツ、アメリカの3ヶ国に分かれて暮らすゲイの3人の様子が、「ちょうどその頃」「「マモルはその時」といった言葉で瞬時に場面が切り替わり描かれていく。微妙にお互いの距離が遠ざかりつつ、最後は3人ともが体調の不具合を感じつつ幕を閉じていく。
 第2作「U.S.+S.R. 極東欧のサウナ」はほとんど創作ノートだ。作者とおぼしき女性が稚内からサハリンに船で渡る。その船中、渡航後のレストランその他のことが描かれる。が、随所にa. b. c.と複数の選択肢が示され、同時並行の可能性が置かれる。時には、文章の後ろに(日本的に見える、という言い方は無効。でも、代わりになるよい表現がまだ見つからない)などと注釈が残される。小説は常に複数の可能性の中に置かれる。
 第3作「土木計画」も奇妙だ。女社長の麻美のいる部屋の窓の外で窓拭きの青年が事故で首を吊ってしまう。家に帰れば猫と思われる克枝が死ぬ様子が描かれる。終わる。
 そして第4作「海に落とした名前」。飛行機事故で記憶喪失になった女性を描く。残された者はレシートのみ。これもまた奇妙な兄妹、後藤と三河が現われ、女性を混乱させる。混乱し、発狂する。人はどうしたら人でいられるのか。名前は体を表すどころか、名前こそが存在そのもので、名前のない存在は身体はあっても無しに等しい。そして自我ももつれて混乱して消えていく。
 考えてみれば、「雪の練習帳」も場面や時制がどんどん切り替わる不思議な小説だった。それでいてほんわかしたムードは変わらない。それこそが多和田葉子らしい。不思議な魅力に満たされる。

海に落とした名前

海に落とした名前

●漢字に頼りすぎると日本語も衰弱するかもしれないよ」・・・「難しい漢字を書けば、立派なことを言った気になるけれど、ひらがなで言うことができない内容は、本当に中身をよく分かっているとは言えないかもしれない。」(P26)
●そういう客は、値段に相当する金さえ置いていけばそれでよいと思っているらしく、堂々と商品を持ち帰ってしまう。金さえ払えば、正当な交換になると信じ込んでいるのだ。そういう単細胞な客は、お金くらいしか店に置いて行くものを思いつかないのだから仕方ないのかもしれない。または、それ以上のものはたとえ贈与したくても、持ちあわせていないということかもしれない。(P66)
●たとえ身体がなくても名前さえ分かれば保険が下りるはずだが、逆に名前からはぐれてしまった身体の方は保険がもらえない。本当は名前ではなくて身体の方が医者を必要としているはずなのだけれど。それは住居についても同じことで、名前の方は引き続きどこかに住む権利があるのだろうが、身体は住むところがない。本当は住むところが必要なのは身体の方で、名前は部屋などいらないのに、なぜかそういうことになっている。(P117)
●自分の名前はこれまでいったい何度書いてきただろう。何度書いても忘れるものは忘れる。あるいは書き過ぎて、すり切れて、消えてしまったのか。(P140)