とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

百年の散歩

○わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた。(P6)

 書き出しだ。多和田葉子の小説には、いくつかパターンがあるが、この種の言葉遊びが繰り返されるタイプの小説が最も苦手だ。若い頃ならいい。だが60を過ぎてこれを読むのはなかなか辛い。

 「百年の・・・」で始まる小説と言えば、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を思い出す。しかし本書は「小説」ではない。ベルリンに実在する10の通りと広場を歩き、心に浮かんだ妄想(?)を書き連ねる。通りの名前に啓発された発想、妄想、物語。でもどうして百年なんだ? 10の通りだし、「十年の散歩」でいいじゃないか。それとも百年には、この100年の間に生きた偉人の名前が付けられた通りや広場ということだろうか。

 ドイツでは、いやヨーロッパでは、人の名前が付けられた公共施設が普通にある。かつて東ベルリンだった地区ではロシアの偉人の名前が付けられた通りも多い。そしてナチスの時代、戦後ベルリンが分断されていた時代を思い返す。偉人の名前には似つかわしくない移民の町になってしまった通りもあれば、さびれた商店が並ぶ通り、広い車道が分断する面白みのない道路。

 そしてそれらの通りや町で、「わたし」はあの人を待つ。けっして巡り合えない「あの人」。最後の「マヤコフスキーリング」で「あの人」とは一緒に生活をしている人だと言う。偶然の邂逅を楽しみたいのだと。そんな設定。ところで多和田葉子って結婚していたっけ? 不明。たぶん未婚。でも「あの人」が男性とは限らない。そんな物語は「わたし」には不要だ。物語は町で出会う人の上に勝手に作り出し、貼り付ける。

 でもやはり、こうしてベルリンの通りの名前を見ると、行ってみたくなる。この本で取り上げられた書店や喫茶店などは実在するようだ。筆者がこうした妄想や着想を得た理由がわかるだろうか。そうして歩いていれば、百年などあっという間に過ぎてしまうだろうか。

 

百年の散歩

百年の散歩

 

 

○花束に束ねられた花の一つ一つをよく見ると、そこには茎を切られた時の悲しみが必ず宿っている。いくら切り口から水を吸わせても、花は必ず少しずつ枯れていく。花束で贈るかわりに、どうして、「土地を買って、庭に花を植えて、いっしょに暮らそう」と言い出せないんだろう。町の中の土地は値段が高過ぎて手が出ない。庭が欲しいなら郊外に住むしかない。でも待ちの外に住むのはいやだ。すぐ枯れてしまう切り花を汗ばんだ手でしっかり握って、都市にしがみつく人たちのために花屋が増えていく。(P55)

○日が暮れて、月が出て、月が消えて、地平線がまた明るくなってもこのまま動かずにいたら、身体が石になってしまうだろう。ところが石になる寸前にコルヴィッツは立ち上がって槌を手にとり、自分の肩をカンカンカカーンと力一杯叩いた。すると石が砕けて中から人間の肌が表れた。肩の線はまるく、肘もまるく、手首の線もなめらかで、心から指先まで一つの思いが流れた。・・・このまま彫刻になってしまいたい。(P192)

○わたしは都会の本が好きだ。それぞれが孤独に大陸を歩いて横切って、やっとベルリンに到着したように見える。まわりを見回しても家族や親戚は一本もない。一列に並んでいても隣の木とは無関係。戦火に幹を焼かれて逃げて来た木もあるだろう。そぞろ神にそそのかされて、ついベルリンまで木もあるだろう。そして、わたしのようになぜ来たのか説明できないけれどもベルリン以外のどんな町にも住みたくないといつの間にか思いこんでいる木もあるだろう。(P198)

マヤコフスキーリングは・・・七分もあればひとまわりできてしまう。/大通りをはずれて一度この輪の中に入ってしまうと、エンジンの音がすべて消えて、静まりかえる。すると、鼓膜が鳥のさえずりを捉え始め、いつの間にか耳の中は鳥の声でいっぱいになって、大通りの存在などすっかり忘れられ・・・森のように大きな公園の息づかいが少しずつ肺の中に流れ込んでくる。・・・わたしは、修道院の回廊をゆっくり歩く修行者のようだった。中庭のまわりを何周もするうちに答えに辿り着くと思い込んでいる。(P223)

○出逢ったかもしれない人たち、親友になったかもしれない人たちで町はいっぱいだ。そのせいか、どんなに気の合う昔からの親友でも、同じくらい気の合う人間は町にたくさんいるのだけれど偶然知り合う機会がなかっただけではないかという疑いが拭いきれない。だからわたしは、もう二十年の前から同じ家で寝起きして同じパンを切り分けて食べてきた人間をあえて「あの人」などと呼んで、この都市の迷宮のどこかでもう一度待ち合わせ、初めて会う人のように出遭いなおしてみたいと思い続けているのだ。(P227)