とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

世界「比較貧困学」入門

 日本の暗部を徹底的に取材し、白日の下に晒すことでは、石井光太は現在日本で最高のルポライターの一人だと思う。だが私はこれまで、石井が世界の貧困地域を巡って書いた著作は読んだことがない。なぜなら、それを知っても今の私にできることは限られていると思うから。逃げていると言われればそうだろうが、世界は日本とは遠く、正しい理解も難しい。
 一方で現代日本社会の暗部や矛盾には関心を持っていたいと思う。本書は、現代日本にはびこる「貧困」と世界の「貧困」を比較し、その質的な違いを明らかにした上で、日本の「貧困」の実相に迫るものだ。テーマは、住居、路上生活、教育、労働、結婚、犯罪、食事、そして病と死。これら全部で8章にわたって、世界の貧困:「絶対」貧困、日本の貧困:「相対」貧困に分けて、それぞれの実態について描いていく。
 全体を通して繰り返し書かれるのは、世界の貧困は、低所得者同士の間に「コミュニティ」があり、突発の事故や災害、災難などに対してもコミュニティで対処していく術があるのに対して、日本の貧困は、すべてを「制度」に委ねてしまった結果、低所得者等が「孤立」し、さらなる災難等に対してセーフティネットに救われることなく、どうしようもない状態に落ち込んでいってしまう実態だ。
 人は一人では生きられない生物であることを思えば、孤立の方が人間としての尊厳をなくし、人間でなくしているのかもしれない。特に、孤立化しがちな人々を「自己責任」の一言で葬りがちな現代社会において、実は低所得者に育ってきた環境に起因する知的障害や精神病患者が多いことも指摘され、社会の問題として捉える必要があることを考えさせる。
 阿部彩らの著作でも明らかにされてきたことでもあり、まだ日頃から十分認識している現代日本社会の病変だが、改めて示されると返す言葉がない。日本の指導者はどんな社会を作ろうとしているのか。改めて疑念と憤慨が沸き起こる。

●人々はコミュニティーに依存するのではなく、福祉制度に身を委ねて生きるようになっていったのだ。/だが、低所得者のコミュニティーから福祉制度への乗り換えは手放しで賞賛できることではない。人々がコミュニティーを失って直面するのは、「孤立」である。それまではコミュニティーのなかに身を置いていたことで大勢の人たちと結びついていたのに、福祉制度に代わることで一人きりになってしまうのだ。(P28)
●「政府だって、スラムの連中が言葉でいっても理解しないことをわかっているんだ。だから最初から、スラムの連中を相手にしようとしたら力ずくで押さえるしかない。だけど、ことが大きくならないうちにそれをやってしまったら逆に批判されるだろ。だから、どうしようもなくなった時点で一気に武力で鎮圧するんだよ」/教育の欠如が貧困者たちのあいだで暴力を誘発し、さらに政府の暴力をも引き起こす。そうした負のサイクルがさらなる貧困を生み出すことにもなるのである。(P90)
●途上国では児童労働でも、海賊版DVD販売でも、スラムにおける盗電でも、みんなの目にも見えるかたちで堂々と行われている。・・・一方、日本のグレーは、そういうことが行われていることは知っているが、壁一枚隔てて見えないところで行われるのが常だ。・・・そのため、日本ではだれがグレーのことをしているのか、そしてだれがクロにまで手を染めたのかが見えにくい。クロに手を染めて、警察に捕まって報道されることで、初めて表の社会に出てくるということが少なくないのだ。(P174)
●一応ネパールにも老人福祉施設はありますけど、先進国とくらべて数が少ないのは、周りの人が生活を支えるからなんです。私には、なぜ豊かな日本で知的障害者や高齢者がそんなに孤立してしまうのか理解できません」/なぜこうしたことが起きてしまうのか。それは私たちが「国が何とかしてくれる」「制度があるから大丈夫」と言い訳をして、周りにいる弱者たちを切り捨てているからだろう。(P186)
●いまから三十年前にマザー・テレサが日本を訪れた際に、バブルに向かって盲信している日本人につきつけた言葉だ。/飢えとは食物がない、ということではありません。愛に飢えるのも、飢えです。老人や身体障害者精神障害者やたくさんの人が誰からも愛されないでいます。この人たちは、愛に飢えています。(P265)