とんま天狗は雲の上

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超・反知性主義入門

 「反知性主義」というのは、批判的な言葉だと思っていた。巻末の対談で、筆者とICU副学長の森本あんりとの対談が掲載されている。「反知性主義」とはそういうことだったのか。まさに小田嶋隆の言説こそ反知性主義ではないか。さらに本書では、反知性主義の頭に「超」を付ける。小田嶋隆反知性主義を超えているのか。

 まあそこをあまり突っ込んでも意味はないと思うが、本書は私も毎週楽しみにしている「日経ビジネスオンライン」で掲載されている「小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句」を編集したものである。だいたいは初出記事も覚えているが、改めてこうして読み直すとまた面白い。全く色褪せていない。

 各記事を、「生贄指向」「絆指向」「本音指向」「非情指向」「功利指向」と5つの章に分類している点もいい。もちろん「絆」も「本音」も批判的な意味で使っている。そして巻末対談の「日本の『宗教』と『反知性主義』」も面白い。森本あんりも本も読みたくなった。小田嶋隆は同年代のコラムニストとして感性も近いものを感じる。今後も楽しいコラムを期待したい。 

超・反知性主義入門

超・反知性主義入門

 

 

 

 

反知性主義バズワードになっているのは、「知性」の名で課される評価やノルマがわれわれを圧迫しているからであり、他方、「知性」とされている体制や仕組みに反発する人々の力が、無視できなくなっているからでもある。(P4)

○籾井さんをNHKに送り込んだ人間にとって、世界はでっかいサル山なのだと思う。人間というのは、恫喝すれば従う存在なのだと、そういう形式で、彼はものを考えている。・・・が、人をサルに変えてしまうのは、サル山の構造なのであって、きちんとした社会基盤を整備すれば、われわれは、人間らしく振る舞うことができるはずなのだ。(P68)

○あるタイプのカルトにハマっている人間と話をしていると、その信念の堅固さと、異教徒に対する軽蔑の深さに無力感を抱かされるのだが、私は、啓蒙的な運動に従事している人たちの口吻にも、似たものを感じる。人々が自分と同じ考えに至らないのは、情報を持っていないからで、自分たちが共有している真実を正確に伝えることができれば、誰であれ必ず自分たちと同じ結論に達するはずだということをかなり頑強に信じている。(P174)

センター試験が良いものであるのかどうかは別にして、ある種の人々の中にある「絶えざる変革が、現状を改善して行く」という思い込みがどうかしていると思う。われわれの世界の基礎的な部分は、「変わらないこと」によって保たれている。(P217)

反知性主義というのは、知性をまるごと否定するんじゃなくて、「既存の知性」に対する反逆なの。知性の否定というより、「今、主流になっている、権威となっている知性や理論をぶっ壊して、次に進みたい」という、別の知性です。だから、無知で頑迷固陋というのとは反対で、開拓者的なの。フロンティアスピリットに支えられて、戦闘意欲満々で、今大きな顔をしている権威だとか、伝統だとか、その道の大家だとか、そういうのをみんなぶった切っていくわけ。(P266)