とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

フットボール批評 issue04

 特集のテーマは「日本代表を強くするのは代表監督ではない」。折りしもハリルホジッチ新監督が決まり、今日にも新監督の下での初めての代表ゲームがある。もちろんその内容に期待はするが、優れた代表監督がいれば即、代表チームが強くなるわけではない。では日本代表を強くするものは何か。
 一つは先を見据えたぶれないサッカー協会の方針。「JFAが日本代表のサッカーをどう定義しているのか・・・大本のそこがしっかりできているとは思えない」(P028)と西部氏は批判するが、やはりサッカー協会を批判する記事は他にも多くある。技術委員会の存在意義を問う意見は、今西和男氏や岡野俊一郎氏などの大先輩たちからも聞かれた。
 しかしそうした協会の体質にとどまらず、本誌ではさまざまな視点で日本代表を強くするための方策が語られる。一つは「守備の強化」。これは、「守備セオリーに反するサムライたち」のシリーズで細かく対戦シーンを取り上げて分析をしているが、守備こそ攻撃の手段と考えて作り直すことの重要性を指摘する。
 また「育成ビジョン」を批判するもの。「自分たちのサッカー」を言うのであれば、当然そのリスク管理もすべきところが、自分よがりのサッカーを展開することが目的となり、そこから崩壊していった。さらに、ドイツとメキシコの育成モデルや代表構築の考え方を紹介する記事もある。ヴァンフォーレの石崎監督への取材や、障がい者サッカーの動向、そしてALSに侵されたFC岐阜の恩田社長を追う記事も注目される。
 いつもながら小田嶋隆の「フットボール星人」も面白い。香川の「反省コメント」を批判し、謝罪会見好きのメディアを批判する。そうだ、「反省なんかするな」。「自信を持て」。トルシエの言葉の意味がようやくわかる時代になってきた。もちろんメディアは全然ダメなままだけど。
 はたして強くなった日本代表を観られるのは、私の目が黒いうちなのだろうか。いやW杯出場だって実現できるとは思ってもみなかった。それに比べれば、せめてW杯ベスト4くらいは達成可能だと思いたい。いったい誰が日本代表を強くするのか。

●守備とは攻めるための手段。効率的な守備が効率的な攻撃を生む。だからこそ守備の質が問われる。/この基本に立ち返ることこそが最も重要なのではないでしょうか。/決して「得点力不足」などではない日本が、今よりも効率的な守備組織に裏打ちされたチームになれば、間違いなく、その攻撃はさらに効率的になる。(P043)
●世界の育成では、主導権を握られる試合を経験しながら育っていくのが普通ですが、日本では主導権を握りっぱなしのゲームしか経験しないで上に上がり、いざアジア予選で世界大会の切符が懸かる準々決勝で全てのカテゴリーが負けています。・・・私は何も日本らしさを追及するためのポゼッション、パスサッカー自体を否定しているのではなく、Japan’s Wayを追求することで出てくる守備のリスクや相手のカウンターの対策や、そのための育成がなかった部分を指摘しているのです。(P052)
●一昔前のメンタルトレーニングって、実力発揮が目的でした。つまりビビったり、焦ったり、空回りしたりして、本番で実力を出しきれないケースがたくさんあったわけです。今の日本の選手は、そういったところは解消できているんですけど、相手の心理状況を考えながら自分たちの戦いやすい環境を作るという面で、まだまだだと思います。・・・たとえば「マリーシア」という言葉がありますけど、あれは「ずる賢い」というよりも、むしろ戦略的な戦い方であると解釈すべきでしょうね。(P069)
ALS患者であろうが健常者であろうが、「生きる」という選択は同時にまわりに「迷惑」をかけるという選択だ。“自己責任論”が大手を振ってまかり通るこの世の中にあっても、他人に一切迷惑をかけずに生きられる人間などいない。・・・人は多様かつ雑多な社会の中でさまざまな価値観を獲得しながら、迷惑だと思っているものを許容・寛恕・奉仕・献身の喜びに変えながら人とかかわっていく。悲しみの先に感謝と希望を見つけ出す。サッカーと同じだ。みなそれぞれに意味や重さの違いはあっても、それが喜びというものではないか? それが生きるということではないのか?(P097)
●敗戦直後の選手のコメントも感心しない。特に香川選手の「責任を感じています」みたいなおよそ元気のかけらもない発言には、がっかりした。・・・「結果は受け止めるが、やるだけのことはやったと思っている」ぐらいに言っておいて何がいけない。・・・そもそも、敗戦後のインタビューに「反省」を求める態度がどうかしている。・・・ここ数年、サッカーに限らず、何か不祥事が発覚すると、必ず当事者による「謝罪会見」や「釈明会見」が開かれる。あの「謝罪会見」も、別に「説明責任」を求めていたり、「真相究明」を期待して開催されているのではない。・・・あの空々しいイベントの趣旨はあくまでも「公開処刑」なのである。(P105)