とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

希望と欲望

 「希望」を持つことは良いことだと一般的には言われる。片や、「欲望」を持つことは必ずしも肯定的に捉えてもらえないことが多い。「希望」と「欲望」。でも、その違いは何だろうか。

 辞書でそれぞれの言葉を引けば、「希望」は「未来に望みをかけること」とあり、「欲望」は「欲しがる心。不足を感じて、これを満たそうと望む心」とある。「望み」をかけることは同じだから、違いは「希」と「欲」にある。それでさらに「希」と「欲」を調べてみれば、「希」とは「めったにない。珍しい。まれ」とあり、「欲」とは「それが満たされた時に、快を感じる感覚」とある。

 まれにしか起こらないことを望むのは「良いこと」で、快を満たそうとするのは「悪いこと」か? 「希望」であれ、「欲望」であれ、求めるものが実現することを望むことに違いはない。その差は、求めるものが「まれ」か「実現可能性が高い」かという違いだけではないのか。だとすれば「まれなこと」を望むことは「良く」、「まれでないこと」を望むことは「悪い」と感じるのは何故だろう。

 重要なのは、求めるものを手に入れるためにどれだけの努力、または行動をするかという点にあるのではないか。そして多くの場合、手が届きそうなものに対しては、それなりの努力や行動を起こすが、まれなことに対しては努力を怠りがちだったりする。いや、そうではなく、「まれ」にしか実現しないことに対しても、努力を重ねる姿が「良い」とされるのだろうか。だとすれば、「希望を持つ」ことが「良い」のではなく、「希望」に向けて努力することが「良い」ということになる。

 でも、実現することが「まれ」なことに向けて努力をしても、「まれ」なのだから、多くの場合、手に入れることができない。とすると、実現困難な目標に向けて、不可能な努力をし、多くの場合は実現することができない、その「はかなさ」を賞賛しているのだろうか。そう考えると、「希望を持つ」ことはけっこう空しいものであり、「希望を持て」とは他人が無責任に言う言葉のような気がする。

 「将来の希望」といっても、今さら実感をもって持つことのできない年齢になってしまった私が今言えるのは、「希望」ではなく「展望を持て」ということだろうか。「展望」であれば「広く、遠くの方まで見通すこと。見晴らし。見通し」と書かれている。現在の立ち位置を確認し、将来を展望して、次の行動を起こす。目標は展望の結果で常に変わる。同時に行動も変わる。そうやって、たった一つの「希望」に囚われることなく生きていくことを、若い人にはアドバイスしたい。と、このブログに書いたところで、詮無いことではあるのだが。