とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

彼らは世界にはなればなれに立っている☆

 待望の、太田愛の新刊が出版された。「天上の葦」などに登場した3人が活躍する社会派ミステリーではなく、何とファンタジー

 序章で提示される1枚の写真。楽しいパーティーの一幕に登場する11名の運命が、その後、わずかの間に大きく暗転する。それを4人の登場人物の独白という形で描いていく。羽虫と呼ばれる移民を母に持つ混血の少年トゥーレ、彼の母親が行方不明になり父親と共にその町を旅立った後、映画館の受付を務める羽虫のマリが町の隠された秘密を語る。葉巻屋はマリの死の真相、そして伯爵の養女コンテッサの企みを覗き穴から窺う。最後に、死人の言葉を聞く窟の魔術師がすべての真相を語っていく。

 トゥーレの母アレンカは他の国に旅立ったのではないか。コンテッサの企みは成功するのか。何度か希望を抱くが、すべては叶えられることなく、伯爵も町の人々も羽虫も、そして魔術師を残してすべての人々は亡くなる。そこに救いはなかった。なぜそうなったのか。目の前の欲望に沿って、責任を持たず、安楽に生きることしか考えない町の人々は、民選制度を否定し、独裁者を熱狂的に支持し、先を争って要求に応え、羽虫を踏みにじることで抑鬱を抑え込み、自ら考えることをやめ、そして戦争に巻き込まれ、男どもは出兵して戦地で命を落とし、空襲を受け、町は灰燼に帰す。

 この塔の地・始まりの町の物語こそ、今の日本の姿ではないか。「彼らは世界にはなればなれに立っている」というこのタイトルはドイツ系ユダヤ人のパウル・ツェランの詩の一節から取ったとのことだが、我々の間にも分断が迫り、離れ離れになってはいないか。この物語を伝えること、それが遥かな遠い未来につながる。その希望を持って、筆者はこの作品を紡ぎ出した。絶望がいよいよ深くなっていく。

 

 

○以前は市民が自分たちの代表となる議員を選ぶ<民選>と呼ばれる制度があった。だが、投票に行く人がだんだん減って二人に一人を下回るようになった。つまり民選が必要ないと考える人が過半数を占めるという事態を受けて…民選の存続を問う投票を行うことを決めたのだ。…投票の結果、民選の存続の可否は拮抗したが、投票率は五割ほどで、結局存続を望んでいるのは全体の四分の一と解釈され、民選は…正式に廃止された。(P63)

○羽虫を踏みつけにすることでなけなしの自由を味わい、ようやく自尊心を保ってきたのだ…もしかすると初めの躓きは、ごく控えめな欲望だったのではないか。言ってみれば、自分だけ損をするのは嫌だというような。…上の者の言いつけにいち早く従い…言外の要求にも応え、その貢献の度合いを競い合う。…上から味わわされた屈辱は下の者へ。…気がついてみれば、おそろしく息苦しい卑屈な時間を生きる羽目になっていたわけだ。(P260)

○最も恐ろしいのは…力を握った愚か者たちだ。彼らはつじつまの合わない未来を夢見る。…同時に、自分たちは絶対に誤りを犯さないと信じている。だが、そのような彼らにこそ熱狂的な支持者が現れるのだ。支持者たちもまた夢見ているからだ。…自分自身を美しいと思えないからこそ、美しい者の末裔でありたいと願う。その理念が美しいものであったはずの<あのころ>の再来を夢見る。…取り戻そうとする。倒錯した、あさましい奇跡を夢見る。(P277)

○戦争は結果にしか過ぎない。夥しい死は、無数の人々の選択の結果、あるいは選択を放棄した結果、または選択と思わずに同調した結果なのだ。この町は理性と良心を忠誠心にすり替え、次世代への責任を力への盲従で埋め合わせ、そうして見たいものだけを見て歳月を浪費してきた。(P354)

○遺志は、生きている者に継がれなければならなかったのだ。生きた者が力を尽くし、また継がれていく。人の奇跡は時間の軸の中にあるのだ。…町の人々が、力を持つ者たちに次々と明け渡していったものは、もしかしたらそのようにして成就した奇跡だったのかもしれない。人の尊厳や町の公正さ、それらが…いつしか当然のものとなり、誰も気に留めなくなり、そして人々の大いなる無関心のうちに、瞬く間に失われていった。(P364)