とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

自我の起原

 「補論1<自我の比較社会学>ノート」で本編の位置付けが書かれている。それによれば、本編は、<自我の比較社会学>を構成する5部のうちの最初の「第1部 動物社会における個体と個体間関係」に相当する。
 生物社会学の研究成果、特にドーキンスの「利己的な遺伝子」を中心とする遺伝子(生成子)レベルの学説をベースに、自我がいかに芽生えるのか、生成子レベルの利己性と細胞レベル、個体レベル、群レベルといった重層的な生物存在のあり方の中で、<自我意識>の発生とその意味を問う。
 テレオノミー(何のために)を問うことが、利己的と利他的の境をなくし、我々は答えの出ないもののために利己的にかつ利他的に行動する。<自我意識>は他者との関係の中で芽生えるというのは正しい。同時に自己は他者である。
 非常に難解でわかりにくいけれど、自我と他者の間に執拗なまでにかき分け追究していく姿勢には感動する。その後ろを追っかけていくだけで楽しい。もっとも、私のあまりの能力不足ゆえ、通り過ぎると同時に閉ざされていくのが哀しいが・・・。
 補論2に宮沢賢治論が収められている。宮沢賢治も、社会的存在としての自己と自我の狭間で呻吟していたことが明らかにされる。生物レベルの探求である本編と、人間存在における自我を追い求める宮沢賢治の姿が対のものとして描かれている。その姿はそのまま見田宗介氏自身とも重ねて見えるような気がするのは読者の思い込みだろうか。

自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)

自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)

●性という<革命>のかたちをとおして、個体の立場からみれば,死は真に徹底した死となる.性のある者は,同じ遺伝子型の個体を決して残さない.子供を残しても残さなくても,「私」は残らない.「私」のクローンさえ残らない.われわれが性の存在であるということは,完全に死すべき存在であるということだ.(P70)
●個体の個有性への相互関心と識別能力が,折り返して自己保身のアイデンティティの個有性という感覚の前提となると考えていいはずである./つまり<自己意識>は一般に,他の個体との社会的な関係において反照的に形成されるが,その文脈となる社会関係が,このように「個体識別的」である時にははじめて,それはわれわれにみるような,かけがえのないものとしての<自我>の感覚を形成するものとなるだろう.(P127)
●<個体>のテレオノミーは非一義的であり,重層的に非決定である.<私は何のために生きるか>という問いへの答えは,・・・ほとんど際限もないまでに多様であるように開かれている.・・・個体という主体であることじたいが、すでに<さまよい出た>存在である.・・・つまり自分が本来あるはずのところの外部に解き放たれてある仕方である.(P154)
●人が<ほんとうのもの>を求めるということをどこかでやめてしまう仕方は,二つある.宗教の駅と,反宗教の駅だ.<ほんとうのもの>はここにあるのだ,これ以上求めることはないのだという仕方で人をその場で降ろす.反宗教の駅は,<ほんとうのもの>はどこにもないのだ,そんなものをもとめることはないのだという仕方で降ろす.賢治が択んだのは、そのどちらでもないような仕方で歩きつづけることだったと思う.(P200)