とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

アメリカン・デモクラシーの逆説

 前著「経済成長という病」を読んで、グローバリズムや多様化についての言説に興味を惹かれた。「グローバル化」と「グローバリズム」の逆説。「多様化」と「分断化」の逆説。これから読む2冊の本を図書館へ借りに行った帰りに、新刊本のコーナーで本書が目に止まった。期限内に返せるか少し心配したが、真っ先に読むことにした。
 本書でも、自由や多様化といったアメリカの「正義」が逆説的に機能している事例がいくつも紹介されている。しかしそうしたことも踏まえて、オバマ政権、保守党と民主党といったアメリカの政治的土壌と変化が語られている点が興味深い。
 冒頭、オバマの掲げた「変革」が「回帰」を伴う保守的なものであることを述べる。オバマの手法は、「二項対立の超克」や「多元的な価値の尊重」といった「内包的」な思考と手法である、と言う。そしてそれは保守党の内情に通じるし、民主党と保守党の垣根を越えることでもある。そして同時に深刻な分断にも通じている。
 レーガンの束ねた「保守大連合」は、?「強いアメリカ」の復権を目指す安保保守、?「小さな政府」を目指す経済保守、?「伝統的価値」の回復を目指す社会保守、?従来からの穏健保守から成る。そして以下のようにつなげる。

●いわば「寄り合い所帯」でもある「保守大連合」をかろうじて束ねた最大公約数は「セルフ・ガバナンス(自己統治)」という考えである。それは、国内的には政府の介入を排し、個人や企業、コミュニティの自由=自治を重んじる立場を意味し、対外的には他国や国際社会・・・からの介入を排し、国家としての自由=自治を積極的に担保しようとする姿勢に通ずる。(P16)

 さらに「多様化」や「民主的」という言葉を通じ、オバマを介して、民主党とつながっていく。第2章以降では、メディアの現状、ハリケーン「カトリーナ」での対応、ゲーテッド・コミュニティ、宗教など個別の事象を取り上げながら、現実社会で進行しているアメリカ全体を揺するきしみを分析していく。
 しかし同時に、筆者の抱くアメリカへの期待や信頼も大きい。それはアメリカ研究者として深くアメリカに関わってきた経験がなせることでもあるが、その経験ゆえに見えている闇と光がある。
 少なくとも日本にこれほどまでの多様性があるのか。アメリカを批判する以上に、日本の現状に暗い予感を覚える。

アメリカン・デモクラシーの逆説 (岩波新書)

アメリカン・デモクラシーの逆説 (岩波新書)

●「戦争の結果、企業が王座につき、その後には高位の者たちの腐敗の時代がつづく。金権は人々の先入観に働きかけてみずからの治世を長期化させ、やがてすべての富が少数者の手だけに集中することになったとき、共和国は破滅するだろう。」(P60)
ゲーテッド・コミュニティは、その姿から、中世ヨーロッパの「要塞(fortress)」に喩えられることがある。「近代」の象徴であるはずのアメリカに増殖し続ける「新しい中世」。それは自由を担保するものだろうか。それとも自由の喪失、いや、自由からの逃走を意味するものだろうか。私には「自由社会の盟主」を自負するアメリカ社会全体への警鐘のように思えてならない。それはまた、「多から一を成す(E Pluribus Unum)」というアメリカの理念に対する試練のようにも思える。(P88)
多文化主義によって分離主義的傾向が助長され、排他的な単文化主義ないし文化的全体主義が広がるとするならば、それはあまりに皮肉である。・・・もしアメリカ社会が分裂するとすれば、それは多様性のためではなく、むしろ保守であれリベラルであれ、原理主義的なイデオロギーが、何ら自省も妥協もないまま押しつけられる時かもしれない。(P158)
多文化主義・・・の理念が人類全体の目指すべき究極目標であるとしても、性急に「普遍」から語り始めることは、それに対するローカルレベルの反発や反動の可能性も含め、逆効果ですらあるかもしれない。多文化主義原理主義化してしまう逆説を回避するためにも、多文化主義そのものを相対化すること、すなわち多文化主義の「多文化」化が欠かせない。(P170)