とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

おせっかい教育論

 内田樹に、鷲田清一釈徹宗、それに大阪市長平松邦夫の4名による対談本である。対談本は長さの割に内容が薄くあまり好きではないが、この本についてはその内容というより、鷲田清一釈徹宗がどんな話をするのかに興味があった。釈徹宗は内田ブログによく出てくる浄土真宗住職にして相愛大学教授。そして鷲田清一大阪大学総長でもある哲学者である。
 特に鷲田清一は、中日新聞にコラムを連載しており、これが毎回非常に面白い。そういう意味で興味を持って読み進めた。読んでみると、釈氏は大阪や幕末からの教育史解説が多い。鷲田氏は哲学的な難解な言い回しが多い。面白くないわけではないが、内田樹の語り口の鋭さ、比喩の即妙さと並べられると、どうしても内田樹の言葉の方に惹かれてしまう。
 特に、「日本の教育は60年以上かかって壊してきたのだから、10年やそこらで直るわけがない」、「教育が壊れているのは家庭が壊れているのだ」、また「文科省の人間は、自分が政治家や経済人に恫喝されて仕事をしているものだから、教育も恫喝すればいいと思っている」など、どこまで本当かは別にして、「そりゃそうだ」と思わせる。
 もう一人関心を持ったのは平松市長だ。あの橋下知事にかき回されて、凡庸な自治省知事かと思っていたが、マスコミ出身の民間人市長で、知性や教養レベルはあの橋下知事をはるかに凌駕している。そうであれば、何としてもあの橋下知事には負けてほしくない。
 大阪は難しい街だろう。しかし可能性を秘めた街であることも本書を読むとよくわかる。東京を相対化して日本全体を見ることができるのは、まずは大阪だ。橋下のような全体主義者の蹂躙をはねかえし、大阪から日本再生の炎が上がることを大いに期待したい。

おせっかい教育論

おせっかい教育論

●おせっかいに教えることは、自らを育てる。教育は「共育」である。街で学び、みんなで共に育って行こうではないか。(P15)
●教育にはいろんな機能があるんですけれど、いちばんの基本は、子供たちを大人にして、自分たちが構築し運営している共同体あるいは自治体のフルメンバーとして、それを担い得るような公共性の高い市民を育てるということです。(P26)
●模倣とは他人の受け売りのことではない。他者のふるまいをなぞることで、「魂が打ち開かれる」ことである。・・・「まなび」が、このように「魂が打ち開かれる」あるいは「動かされる」経験だとすれば、それはこれまでのじぶんが砕け散るという体験をつねにともなう。・・・つなずく、揺れる、迷う、壊れる…ということ、そこからしか@まなび」は始まらない。その意味では、落ちこぼれや挫けもまた、大事な「まなび」のプロセスなのである。(P95)
●大阪の人たちは「東京がこうやからこう」。全体を考えると、こっとがこう言ったら、こうせざるを得ないだろうと。全体を見るっていう点では、東京の人より、東京とのカウンターバランスを取らなけりゃいけない大阪人の方が見てる。(P126)
●出会いというのは偶然的なものなんです。だから、出会いの確率を増やすためには、訳の分からない先生たちがずらっと並んでいる方がいいんです。子供の訳の分からなさと同じくらい訳の分からなさの多様性が必要なんです。(P146)
●みんなが言うのは過去10年や20年の制度的な失敗がいま出ているって話でしょ。でも、たぶんそうじゃないんです。ここまで来るのに・・・60〜70年はかかっている。戦後は全部かぶっている。だから、これを直そうと思ったら、時間かかるに決まってるんです。60年かかって壊した社会システムなんだから、直すのに60年はかかる。それくらいの覚悟が要りますよ。(P150)
●人間っていうのは自己利益を追求するだけじゃ限界を超えられないんですよ。「他人のため」という動機がないと技術的な限界は超えられない。「日の丸を背負う」とか「日本のサッカー文化を底上げする」とか、そういう共同体に対する幻想的な忠誠心がないと、自分自身の限界を超えるのはむずかしい。・・・爆発的にポテンシャルを発揮するには「世のため、ひとのため」という「大義名分」が要るんです。(P164)