とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ねむり

 21年ぶりに旧作を全面的に改稿したと言う(ちなみに旧作のタイトルは「眠り」)。図書館で見付け予約した。かなり予約数があったのに、あっという間に順番が回ってきた。イラストがふんだんに入ってわずか87ページ。どうりで。
 読み始めたときには旧作の改稿だということを忘れていた。読みながらいつか読んだことがあると思った。でもどこか違うとも。旧作が収められた文庫本は実家にあって確かめることができないが、こんなエンディングだっただろうか? 何か違う。
 どちらが好きか、と言われてもよくわからない。旧作を覚えていないから。ドイツの出版社はどうしてこの作品を選んでイラストを添えて出版したんだろう。「眠らない女」。眠らなくなった女は、人生って何だろうと考える。自己存在って何だろうと考える。日々の生活の先に何があるのだろうと考える。そして「たぶん何もない」と言う。
 最後の場面で、深夜にシートで座っている女を車ごと激しく左右に揺さぶる存在が現れる。眠らないことを肯定し、自分を推論の世界(世俗)から変化していると自覚した自分を揺する者がいる。「何かが間違っている」と思う。ねむりは人間にとって異次元の世界にして、不可欠な世界なのだ。眠らないことは「何かが間違っている」。起きては眠る、その果てしなく感じる平凡な日常を重ねること、そのことこそが生きるということなのだろう。

ねむり

ねむり

●そうだ、これが本当の現実なんだ、と私は認識する。足跡なんかどうでもいい。この同時存在を今のまま維持していくこと、それが何より私に求められていることなのだ。(P23)
●読み直してあらためてわかったことだが、私は「アンナ・カレーニナ」の内容をろくすっぽ記憶していなかった。登場人物も場面もあらかた忘れていた。全然別の本を読んでいるような気さえした。不思議なものだ、と私は思う。読んだ時はそれなりに感動したはずなのに、結局のところ何も頭に残っていない。そこにあったはずの環状の震えや高まりの記憶は、いつのまにか抜け落ちて、どこかに消えてしまっていた。/それではあの時代に、私が本を読むことで消費した膨大な時間はいったい何だったのだろう?(P44)
●それでは私の人生とはいったい何だろう? 私は傾向的に消費され、そのかたよりを調整するために眠る。それが日々反復される。朝が来て目覚め、夜が来て眠る。その反復の先にいったい何があるのだろう? 何かはあるのだろうか? いや、何もない、と私は思う。たぶん何もない。ただ傾向と是正とが、私の体の中で果てしない綱引きをしているだけだ。(P65)
●少なくとも今、私は自分の人生を拡大している。これは素晴らしいことだった。自分が生きているという実感がそこにはある。私は消費されていない。少なくとも、消費されていない部分の私がここに存在している。生きるというのはまさにそういうことなのだ。(P68)