とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

赤の他人の瓜二つ

 6月11日放送の「週刊ブックレビュー」(NHK)で紹介していて読みたくなった。
「血の繋がっていない、赤の他人が瓜二つ。そんなのはどこにでもよくある話だ。(P3)」で始まり、「私が初めてその男に会ったとき、そんな自問自答が思い浮かんだ」と書かれているのに、その後、この「私」はいっさい現れない。
 話はその「男」の家族に移り、息子と娘の話になる。その男はチョコレート工場に勤めていた。「ところでこの、チョコレートという不思議な食べ物は人類の歴史の中で、いつ、どのようにして誕生したのだろうか。」(P24)と展開し、なぜかコロンブスの話になる。
 ひとしきりコロンブスの生涯とカカオの話が描かれると、突然今度はイタリア・トスカーナ大公国の大公コジモ3世につかえる医師の話になる。そして話は最初に現れた家族のうちの少年の青年時代に戻ってくる。
 妻との出会いと結婚式当日の駆け落ちというドラマティックな話が淡々と綴られ、青年の家族は成長し、いつしか壮年に至り、子供たちも成長する。妹が出てくる。小説家となった妹。老いてなお元気な両親。そして最後に・・・。
 転々と、かつ自然に移り変わっていく展開。文章は平易ですらすらと引き込まれていく。自分がどの地点に、どの時空にいるのかわからなくなる。どの登場人物も臨死体験をし、過去と現在の狭間を思う。過去と現在と未来。赤の他人と自分。生と死。これらの境が曖昧となり、それでいいと言う。
 すなわち、「私」は「男」であり、「息子」であり、「妹」であり、「妻」であり、「コロンブス」であり、「トスカーナ大公の医師」である。そしてそれらはすべて赤の他人の「私」である。そんな時空の旅をひょうひょうと楽しむ。面白い小説である。これから磯崎憲一郎もいくつか読んでみようと思った。

赤の他人の瓜二つ

赤の他人の瓜二つ

●これまでに経験し記憶しているいっさいは、自分というひとりの人間の死と共に跡形もなく消え失せてしまうものなのか。もしもそうなのだとしたら、それこそ何て嘘臭い、受け容れがたいことなのだろう。(P31)
●このまま死んだとしても、それはいままでの幾千万と繰り返されてきた死―人間だけではない、動物や昆虫、植物たちの多くの死、それらのうちのひとつに過ぎないという考えに傾いていた。自分がいま生きているのか、死んでしまったのかさえも分からなかったが、どちらにしても大差のない、似たような状態のようにも思われた、(P77)
●若くして彼女は過去のために人生を捧げる覚悟を固めてしまっていたのだが、じっさいときおり、彼女は自分が余命いくばくもない九十歳を過ぎた老婆になったように感じることがあった。孤独な人がみなそうであるように、彼女もまた幼いころから常に末期の日々のまなざしで世界を眺めていたのだ。(P118)
●その意味するところは―自分でも説明の付かない強引さで彼女は感じた―過去が私を守ってくれているということに他ならないではないか! 孤独に生きていくことを恐れねばならぬ理由なんてどこにもないではないか!(P136)
●妻も、そして彼じしんも、自らの過去に後悔はない、それどころかもう一度生き直せといわれれば、迷わず同じ生き方を選ぶはずだった。いや正確にいえば、選択肢などというものはそもそも存在しないのだ。そんなことはこれまで一度も話したことはなかったし、その後も話すことなく二人は死んでいくのだが、それは二人にとって言葉で確認する必要などないほど明確な事実だったのだ。(P144)