とんま天狗は雲の上

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ケインズとハイエク

 松原隆一郎と言えば、東大都市工を卒業後、経済学に歩を進めた経済学者である。「失われた景観」は、やや物足りない感はあったものの、筆者の経歴を基にした評論だったし、その後の新聞紙上で見る筆者のコラムからも穏当・中庸な経済学者という感じを持っていた。
 ハイエクと言えば、最近見直されつつある経済学の巨匠だ。昔読んだ池田信夫「ハイエク」のことはもうすっかり覚えていないが、難しかった覚えだけがある。一般に流布されている理解は、極端な自由放任主義みたいなイメージではないか。
 松原隆一郎が解説するケインズハイエクはもっと易しいかと思ったが、あに図らんや、これが難しいのって何のって。基本的に、二人の著書とその内容を時系列順に並べて紹介していくのだが、特に初期の「貨幣改革論」や「貨幣論」(共にケインズ)、「価格と生産」や「利潤、利子および投資」(共にハイエク)など、さっぱりわからない。わからないながら読み進め、1946年にケインズが亡くなって、ハイエクが哲学的考察に傾斜し始めた頃から、ようやく何が書いてあるのかがおぼろげながらわかるようになってきた。
 という状況で読み終えたので、結局、二人は同じ経済学というフィールドで対立しつつも同じようなことを構想し、現実の経済状況を踏まえて、よりよい経済社会の構築をめざしたということがわかったに過ぎない。
 たぶんこれからもハイエクケインズ研究はさらに進み、その思想が現代社会に何らかの影響を及ぼすような状況も生まれてくるだろう。特にハイエクの思想は興味深い。しばらく気にしておくことにしよう。

ケインズとハイエク―貨幣と市場への問い (講談社現代新書)

ケインズとハイエク―貨幣と市場への問い (講談社現代新書)

ハイエクは貨幣が持続的に流入もしくは流出するときに生じる状態を、物理学的な「均衡」ではなく、「定常状態」ないし生物学者が「流体平衡」と呼ぶもの」と言い換えている。そしてハチミツのように粘着性のある液体を容器に注ぐときの例を挙げる。(P15)
ケインズの諸著作を通読すると、・・・彼が生きた時代から受け止めたものが何であったのかが伝わってくる。ケインズには『インドの通貨と金融』以来、保持し続けた「構え方」とでも言うべきものがある。それは大きく言えば、眼前に息づく時代を大きくスケッチしようという心構えである。(P114)
ケインズは大量生産の工場労働者を想定したのか労働を同質と見ていたが、ハイエクによれば時と所により、労働も資本も異なっている。ハイエクの想定する企業家は、一定の貨幣資本を持ち、特定の時と所で生産要素の異質性につき自分だけが知る知識を前提に、価格や利子率を指針として資本を投下し利潤を得るような存在である。(P176)
●「法の支配」は・・・個人を拘束するだけではない。むしろ政府が恣意的に権力を振るわぬよう、権力に限界を画するものでなければならない。そこでハイエクは、法が立法府によって創造されるものではなく、司法により発見されるものとしている。「法の支配」とは、立法府が可決し個人を規制する法にかんする概念ではなく、立法のあり方を規定する原則(超―法的原則)なのである。(P197)
ハイエクは市場を複雑なシステムの一つ、分散する知識の処理装置とみなした。そこでは一部の人が保持する将来への期待や分類が淘汰され、裏切られる。・・・市場は社会を無数で多様な知識に対して適応させる。・・・こうした見方は、もちろんケインズと対立する。ケインズによれば、不安定なのは市場そのものである。市場は、いわば自生的に無秩序でありうる。・・・そのように経済観の骨子だけを眺めれば、両者は対立している。けれども市場経済を・・・一種の複雑系だと考えること、模倣と慣行に満ちているという理解において、彼らは同意見である。(P246)