とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

猫を抱いて象と泳ぐ

 不思議なタイトルである。この本を購入後、二ヶ月以上も本棚の上に置いたまま、後で買った本を何冊も先に読んでいった。どうしてそんなことになったのか。その間、少年は(ミイラは、インディラは)、そんな僕をどんな思いで見送ったのだろうか。いや、そんなことがあるわけがない。でも思わずそんな気がしてくる。
 リトル・アリョーヒンと呼ばれた少年は、精巧なチェス人形“リトル・アリョーヒン”の中で、デパートの屋上から降りられなく一生を終えた象のインディラ、壁に挟まれたまま出られなくなった少女のミイラ、廃バスの中で暮らし心臓発作で死亡後はバスを壊さないと出られなかった肥満したマスターとともに、彼を見つめる祖母・祖父・弟、老婆令嬢、ミイラとあだ名で呼ばれた手品師の娘、彼女の肩に縛り付けられたように動かない鳩、老人ホームの総婦長さんらの温かい眼差しを受けて、静かにその一生を送り、そして終えていく。
 読みながら、「そう言えば、小川洋子は“博士の愛した数式”の著者だった」と思い出した。僕が小川洋子を読み出したのは(通俗的ではあるが)、“博士の愛した数式”が最初だった。その後、何冊か筆者の小説に魅了されたが、いつしか幻惑的な作家という印象になっていた。しかし久しぶりに小川洋子の原点に戻ってきたような気がする。いや原点は別、という意見もあるかもしれないが、久しぶりに安心して読める小川洋子の世界に戻ってきた。
 この小川洋子ワールドに浸るには準備がいるのだろう。それが二ヶ月間本棚に放置された理由か。ようやく本書を楽しむ余裕ができてきた。こうして誰とも争わず、静かに、ふわふわと心豊かに生きていかれるといいのだけれど。でも、リトル・アリョーヒンは若くして逝かねばならなかった。こんな世界は現世ではそうあるものではないのだろう。

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

●最後に少年はチェス盤の一番外側を人差し指でぐるっとなぞった。そこが輪郭だった。間違ってそこから外へ迷い出てしまわないよう少年を守ってくれる砦だった。インディラにとっての屋上、ミイラにとっての壁だった。ふと少年は、・・・まるでその盤が馴染み深い住処であるかのような気分に陥った。(P46)
●チェスの試合は一人でやるものじゃない・・・チェス盤に描かれる詩は、白と黒、両方の駒が動いて初めて完成する」「うん」「相手が強ければ強いほど、今まで味わったことのない素晴らしい詩に出会える可能性が高まるんだ」(P102)
●計算上、チェスの可能な棋譜は十の一二三乗あるんだ。宇宙を構成する粒子の数より多いと言われているよ」・・・「じゃあチェスをするっていうのは、あの星を一個一個旅して歩くようなものなのね、きっと」「そうだよ、地球の上だけでは収まりきらないから、宇宙まで旅をしているんだ」「“リトル・アリューシャン”という名の宇宙船に乗ってね」(P176)
●自分はデパートの屋上にある海で泳いでいる。それはインディラの足跡にできた海だ。そして人形の中に入るよりもっと小さく、生まれた時のままの唇だけの姿になって、とても安堵している。ミイラはポーンが吐き出した空気の泡の中で、その控えめな笑顔を透明な膜に映し出している。インディラの鼻が巻き起こす海流に乗り、皆一緒に漂ってゆく。チェスの海は果てしなく、海底ははるかに遠いが、不安など一かけらもなく、唇の奥で沈黙を温めながらどこまでもどこまでも深く沈んでゆく。(P212)
●「口のある者が口を開けば自分のことばかり。自分、自分、自分。一番大事なのはいつだって自分だ。しかし、チェスに自分など必要ないのだよ。チェス盤に現れ出ることは、人間の言葉では説明不可能。愚かな口で自分について語るなんて、せっかくのチェス盤に落書きするようなものだ」(P290)