とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

二つの「競争」

 経済学にとって「競争」は最も重要な概念の一つである。だが、どうやらこの「競争」という言葉が、英語では2種類の言葉で表現されているらしい。それがコンペティションとエミュレーションである。

●競争の本質をなによりその「淘汰性」に見いだし、ゆえに競争の「抑制」も時には必要になると考える競争感をコンペティションと呼び、それとは対照的に、競争の本質を競い合い的な「模倣性」のなかに見いだし、競争の「促進」こそ競争主体の向上にとって必要なことと考える競争観をエミュレーションと呼んで・・・(P142)

 昨今の我々は、「競争」とはエミュレーションのことだと思い込んでいる。だが、経済学の祖、アダム・スミスは、この二つの「競争」を使い分け、かつエミュレーションを警戒し、コンペティションこそが「正義」であると考えていた。もちろん、著者独自の解釈という部分もあるのかもしれないが、現在の新自由主義の蔓延、格差社会にあって、これは強く興味を引く考え方だ。
 アダム・スミスの競争論のベースにあるのがプラトンの経済論だというのも面白い。完全競争論はプラトンイデアに相当する理想的な経済状況であり、人びとに各自の能力に応じて、各自の得意なことに専心して努力することを求めている。けっして他人を蹴落とすものではなく、逆に他人の領分を侵すことのないよう慎重な配慮を求める「道徳律」である。「経済」の本質は「分業と協業の秩序」であると言う。
 だからと言って著者も、コンペティションだけでいいと言っているわけではない。いや、コンペティションと言いエミュレーションと言うが、それは「競争」の二つの側面を示しているに過ぎない。「競争」のこうした性格をよく理解してうまくコントロールしていくことが重要だ。とは言え、人口が減少する時代を迎え、「成長」が前提となった「競争」ではなく、「縮小」を前提とした「競争」社会をつくることが求められている。そしてそれになじむのはやはり、「自分のことだけをする」「他人から奪おうとしない」コンペティションの思想だと思われる。

二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想 (講談社現代新書)

二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想 (講談社現代新書)

●エミュレーションには、自分で自分を抑制する機能が、その本質的性質として、欠けているのです。だからエミュレーションをその原理にまかせて放置しておくと、やがては競争者の肉体的・精神的限界を突き抜けて、場合によっては生命の危機にまで達してしまうかもしれません。そうなってもなお抑制がかからないこと、それがエミュレーションの本質なのです。(P164)
●競争は「弱者」を排除するためにあるのではなく、むしろ「強者」の出現をむずかしくするためにあるのです。あとは、互いに互いの成果を交換し合えばよいのであった、かくして「分業と協業の秩序」は、コンペティションによっていたずらに活性化されることなく、むしろ「静穏」を維持しながら、日々営まれていくものになるのです。(P186)
●完全競争論がそもそもあらわしていたのは、誰もが自分の生業、「自分のことだけ」をしていれば、それなりに生きていくことができるという、そういう社会の理念であり、そういう経済のありかただったはずです。・・・逆に、そうした経済社会観を人びとがまったく不要と考えるようになれば、完全競争論の居場所は、もはやどこにもなくなるでしょう。・・・いま必要なのはもしかすると、完全競争論の復権なのかもしれません。(P215)